あつた諸外國は、何れも支那に對しては中國の君主として尊敬して居つたものであるのに、蒙古の時に使者を拒んだりしたので向ふが驚いた。支那では海外は皆自分の臣下扱ひにして皇帝何々の國に諭すといふ風に手紙なども書いて居つたもので、それが當り前だつたのです。併し日本に對してはよほど考へたものと見えてさうはしなかつた、即ち大蒙古皇帝書を日本國王に奉ずといふ對等の體裁であります、さうしておしまひの所に不宣白と書いてあつた。そこで其時の記録にも臣とせざることを示すなりと書してあります。是位に優遇したならば日本でも喜んで來るだらう、體裁上日本に使者をやりさへすれば朝貢するだらうと思つた。所が日本では返事をしない、度々來るといふので到頭使者を斬つてしまつた。そこで是は途方もない奴だと思つて遂にあの大きな騷動を起すやうになつたのですが、それも失敗した。その時にすでに蒙古の天子は驚いて居つたわけです。
 所で今度は明の太祖が自分は蒙古の天子を追出して中國を囘復したのだから、日本へ使者をやつて日本から又朝貢をさしてさうして體裁を作らうと考へた。そしてもし來なければと言つて幾らか威しの文句を言つてよこしたのです。さうするとそれを懷良親王が見られて、戰爭をするならしようといふ手紙をやつたのです。此時の手紙は日本で言へば、蒙古襲來の時に取つた態度よりも、よほど激しい態度であります、蒙古の時には喧嘩を買つたやうな手紙を出したのではなく唯返事を出さなかつたのです、それを度々來るからうるさいといふので使者を斬つたのです。所が今度のは勢ひがよかつたと言つても九州全體を統治して居つたといふわけではなく、僅かな土地城池を守つて居つたに過ぎない所の南朝の懷良親王が、斯ういふエライ手紙をやつたのです。而も始めから喧嘩を買つた手紙をやつたのだから驚きました。しかし明の太祖も悧巧で、忽必烈のやうな失敗をするのは詰らぬと考へて、自分が死ぬ時に遺訓といふものを書いた、それにはいろ/\な事を書いてあるが、其の中に海外で征伐をしないといふ國が書いてあります、その中に日本が眞先きにある(笑聲起る)。
 斯ういふことで日本が支那に對して氣焔を吐くことが蒙古襲來以來流行つて來たのであります、これは詰り日本の根本の文化の獨立が出來上つたからだと言つてもよいと思ひます。これは丁度蒙古襲來といふ時が後宇多天皇の始めでありまして、そして此
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