とか天台とかいふ傳統的佛教に對して新しいことを考へる佛教が流行つた時に、漢學においてもさういふことが起つて來たのであります。後醍醐天皇といふ方は漢學においても宋學をやられ、佛家の學問においても單に從來の傳統的の學問のみならず、新しいことをやつて禪宗をお好みになつた。これは親房の書いてゐる所によつても、從來の眞言とか天台とかいふ相傳の學問の外に、當時新しく入つて來た所の禪宗などもやられたといふことが明かに分るのであります。
さういふ次第でありますから、後醍醐天皇は學問上において新思想家でいらつしゃるわけで、其點は後宇多天皇と幾らか違つて居ります、即ち後宇多天皇は從來の密教といふやうなものを根本的に研究し、密教の復古的方法まで進まれたのですが、後醍醐天皇はそれより更に新しい思想で解釋した所の佛教及び漢學をやらうといふ所まで進められたのであります。即ち御父子の間に御考の程度の違つた點があつたわけでありますが、併し前の後宇多天皇の如く復古思想によつて革新機運を起す所の篤學なるお方がなかつたならば、この後醍醐天皇のやうな方が俄かに飛び出して來られるわけはないのであります。やはり後宇多天皇の學者であらせられたことが大いに後醍醐天皇の新思想に關係があるのであります。
尚さういふ風な思想は啻に南朝の方々のみでなく、北朝系の花園天皇などにも同樣あらせられたやうであります、即ち花園天皇はやはり禪宗がよほどお好きであつて、當時の思想上においては持明院統の天子であらせられながら、やはり後醍醐天皇に對してよほどの同情を持つてゐられたやうであります。これが妙なことに現はれて居ります、それは何かといふと書風の上に現はれてゐるのです。この書風に就いては今日もあちらに陳列してありますが、あれを見ると龜山天皇など如何にも從來の平安朝から鎌倉に相傳した所の日本風の柔かいおとなしい書風でありますが、もうすでに後宇多天皇になるとその御消息などを拜見しましても其書風は當時の書風ではない、假名にしても眞名にしてもいかにも豁達で、今までのやうなおとなしい書風に甘んじて居られなかつたといふことが明かに分ります。それが花園天皇になると更に豁達であります。殊に後醍醐天皇の御書風において最もさうであります。それについてその頃有名な青蓮院の尊圓法親王即ち持明院統の伏見院の御子で後伏見院、花園院と御兄弟で入らせられる尊圓
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