文で書いた本がある。此等を讀むのと、今日吾々が漢文で書いてある所の論語などを讀むのと、どつちが理解しやすいか。それだけで既に今日の吾々日本人には、日本人の頭に最も解し易く遺つて居るのは、日本固有のものよりかも、東洋一般に通じて居つた支那文化であつたといふことを考へる事が、極めてたやすい事だと思ひます。それが先づザツと現状でありますが、そこで日本文化といふものが、一の儼然として出來上つたものがあると致しまして、それがどうして出來上つたかといふ事が次の問題であります。
この出來上り方を、例へば動植物が、一の種から、養分を得て、それが段々芽を出して、さうして育つて來たやうにして出來たとも解釋は出來ませう。或は又單に、例へば豆腐が出來るやうに、殆ど豆腐の形が出來上つて居らんで、豆腐になるべき成分があります所へ、そこへにがり[#「にがり」に傍点]を入れると、成分がその爲に寄せられて豆腐の形になるといふやうな出來上り方もありませう。日本文化は、この二種の出來上り方の中、どちらで出來上つたものかといふことが一の問題であらうと思ふ、而もこれが中々むつかしい問題で、私はヒヨツとすると後の方の方法で出來
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