を形作らせて、さうして最後に日本のやうな所へ及んで來たので、日本が今日のやうな文化を形作られたのであります。
ところで文化といふものには又、中心から末端に向つて行く運動と、それから末端から中心に向つて反動する運動がある、さうして其又反動する運動に、權力關係から來るところの運動と、それから純粹の文化から來る運動があると思はれます。例へば最初支那の中でも、三代といふやうな古い時代に起つた勢力は、今の黄河の流を中心としたものでありませうが、それが揚子江の沿岸を刺激して、そこに新しい勢力を形作るといふと、漢の高祖などゝいふ人が其地方から起つて全國を一統して居る。それから北の方の匈奴の游牧する沙漠の土地を刺激しますと、其處に一の強い勢力が出來まして、其勢力が屡々支那の土地を侵略して國を建てたこともあります。日本はどういふやうに支那に對して權力を及ぼしたかといふと、大分遠方であるために權力上の關係は遲かつたのでありますが、併し少くとも明の時に、例の倭寇が明の沿岸を暴したのが、先づ日本の權力として支那に影響を及ぼした始めだと思ひます。最近には日清戰爭があり色々なことがありまして、今日では支那人は、日本は軍國主義だと云うて非常に氣に掛けて居りますが、これは日本の勢力が支那に及ばんとして居る關係から來てゐるのだと思ひます。
是等は權力關係から來たのでありますが、純粹の文化の方の關係から見ましても、支那の文化の中心は屡々移動して居る。最初は黄河の沿岸地方で起りましたのが、今日では支那の文化の中心は矢張揚子江の下流の地方、或は廣東とかいふやうな餘程支那の邊土に文化の中心がありまして、其地方から人物も出來れば、又文學とか藝術とかいふやうなものも出て居ります。最近になりまして日本は西洋文化の影響を受けた爲であるとは申しますけれども、兎も角支那の多數の學生が日本に留學をして、さうして日本で出來たところの本を讀み、日本で受けたところの思想、西洋の思想ではありましても、日本人の手を通したところのものを取るやうになつたといふことは、やはり支那の各地方に弘まつた文化が、段々支那の中心に對して反動して行くと同じ行方で、日本から文化的反動が今支那に向つて起りつゝあるのであります。そこが東洋に於ける日本文化の眞の價値で、そこまで到達したことに依つて日本文化といふものゝ眞の價値が出て來たのであります。
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