上つたのでないかと思ふのです。日本には、文化の種が出來上つて居つたのでなくして、只文化になるべき成分があつた所へ、他の國の文化の力によつて、段々それが寄せられて來て、遂に日本文化といふ一の形を成したのでないかと思はれるのであります。
 兎も角さういふ風に日本文化といふものが出來上つたと、假に斯うきめますと、それからそれがどういふ順序で出來上つて來たかといふことが次の問題で、日本文化といふものは、日本だけで考へますと、日本中心のやうに考へられます。誰でも自分の居る所を中心と考へることは容易なものであります、むかし太陽系の理論がハッキリ分らなかつた時には、地球が中心だと考へて居りました、それで昔は天動説であつて地動説ではなかつた、すべての天體は地球を運るものだと考へて居つたのでありますが、それが段々太陽系の學説が進歩して來ると、自分の所が中心でなかつたことに到達して來た。日本文化の見方も、さういふ風に云ふことが出來るのでありまして、日本で考へると日本が中心でありますけれども、之を世界全體から考へて見ると勿論でありますが、東洋全體から考へても、その文化の起原は、何處から始まつて、さうしてどういふ風な順序を經て日本文化といふものまで到達して來たかといふことを考へると分ると思ふのであります。
 私は東洋の文化は古來支那中心であつたと思ひます。勿論印度もありますが、日本に關係して居る點では、印度文化も直ちに印度から日本へ來たのではなくして、大部分は一度支那を潛つて來て居ります、例へば佛教のやうなものは、元は印度から起つたのでありますが、今日の日本の佛教は、印度其儘の佛教ではなくして、支那を通つて來た佛教、それも單に支那の土地を通つて來たばかりでなくして、支那の文化を通過して來たところの佛教であります、支那文化に洗練されて來た佛教であります。
 印度の方はそれだけに致しまして、それでは支那の方はどういふ風に文化が發達したかといふと、支那でも無論、殊にあゝいふ大きな國でありますから、全地方一遍に文化が出來上つた譯でない。私の考では、例へば、黄河の沿岸から文化が發芽して、それが初め西或は南の方に開けて、それから段々東北に向つて開けて行つたのが、最後に日本まで到達して來たのであります。さういふものが段々方々へ擴つて、その方々の民族を刺激して、その刺激した度毎に、其地方に多少新らしい文化
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