支那文化の及んだ後に出來たところのものである。
日本民族の國家成立は、殆ど高句麗と同時代であると考へられるので、三韓よりも早く開けてゐるが、兎も角其の民族が國を形成した徑路は殆ど同一である。勿論日本は高句麗、三韓の如く一度支那の領土になつた後に初めて民族の自覺を來したのではなくして、單に支那人が日本内地に移住し、若くは海上交通には民族形成以前から、特能を有つてゐた日本民族が、朝鮮支那の沿岸で、支那民族に接觸して、其れから民族形成の方法を學び、多少は自發的に國家らしきものを創建したのであつた。故に民族の搖籃時代から其の素質が朝鮮人よりかも優秀であつたと云ふことが認め得られる。譬へて云へば、從來の日本の學者の解釋の方式は、日本文化の由來を、樹木の種子が最初から存して、それを支那文化の養分に依つて栽培せられたと云ふやうに考へるのであるが、余の考へるところでは、例へば豆腐を造る如きもので、豆を磨つた液の中に豆腐になる素質を持つてはゐたが、之を凝集さすべき他の力が加はらずにあつたので、支那文化は即ち其れを凝集さしたニガリの如きものであると考へるのである。又他の一例を擧げて見るならば、兒童が智識
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