云ふ事がある。忠孝と云ふ名目は勿論支那より輸入した語であるが、忠孝と云ふ事實は元來日本國民が十分に具へてゐて、自分が所有せるものに支那から輸入した名目を應用したものと云ふことに解釋しようと欲する傾がある。然しながら之を根本より考へて見ると、既に國民がもつて居つた徳行の事實があり、而して又他方に固有の國語がある以上、何か其の事實に相當した名目がなければならぬ筈である。茲に數を算へるにも日本人は今日では支那より輸入した文字なり、音なりで一、二、三、四と云ふ如き語を使用するが、しかし現に其の輸入語の外に固有の國語である一つ二つ三つ四つと云ふものを有つてゐる。尤も時としては、朝鮮に於て東西南北等の考を表現するに殆ど國語を失ひ、輸入語の變形したものだけを用ゐてゐるやうの例もあるが、それさへも言語學的に考究する時は、南北と云ふ言葉を表す爲めに、昔は前後と云ふ言葉と同一の語を有つてゐた時代があつて、近代までも地方語の中に其の遺つた形を發見せられるといふやうなことがある。然るに忠孝と云ふ語の如きは、日本民族が支那語を用ゐる以前に如何なる語で表してゐたかゞ殆ど發見しがたい。孝を人名としては、『よし』『たか』と訓むが、其れは『善』『高』と云ふ意味の言葉であつて、親に對する特別語ではない。忠も『たゞ』と訓むのは『正』の意味で、『まめやか』と云ふ義に訓するのは、親切の意味で是も君に對する特別の言葉ではない。一般の善行正義と云ふやうな外に、特別な家族的な並に君臣關係の言葉としての忠孝と云ふことが、既に古代に其の言葉がなかつたとすれば、其の思想があつたか否やが大なる疑問とするに足るではないか。是れは單に、目前に知れ易き例を擧げたのであるが、總ての文化的現象が、何れもかゝる關係にあるのではないかと云ふ疑ひを發し得る。之を近年發達した史學考古學等の智識から云へば、其の疑問が滋々多くなつて來る。日本の歴史の起原を普通に神武紀元とするが、其の以後も數百年間は猶傳説の時代で、記録の時代ではない。けれども兎も角神武以後は、神代の事の多くは神話に屬し、其の中から歴史的事實らしいものを拾ひ出すことは餘程困難であるとは異ひ、如何なる地方に、如何なる順序で、民族的團體が形成せられ、其の地方的傳説が隨て出來て來たかといふことを知ることが出來る。其の年代に關して近來の歴史家の多くは、大體耶蘇紀元頃と定めるのが決して空漠たる推定ではない。然るに考古學の進歩によつて漸次知られてゐる遺物は、少くとも其れ以前からのものがある。しかも、其の當時の遺物が、既に明かに支那文化遺物の變形であるといふことを認めしむるものが多い。
 近頃銅鐸に關する研究、古鏡に關する研究等は急速に進歩して來たが、銅鐸と云ふものは大體に於て支那の鐘から變化して、しかも支那人の歸化人でないところの土着民族が、其の意匠を加へて造つたものであると認められる。其の銅鐸の手本となつた支那器物は、何うしても先秦時代から支那民族に用ゐられたものであつて、其の土着民族によつて變形された時代が、已に耶蘇紀元以前であるといふことは幾多の證據を擧ぐることを得る。引續き著しき遺物は古鏡であるが、古鏡の發掘せられたものは、現に前漢時代即ち耶蘇紀元以前のものと考へられるものが、九州の北部、畿内の一部に發見せられ、後漢時代には既に畿内地方に於て漢鏡を變形したところの日本民族製作のものが多數に發見せられる。其の文化の通過した地理上の徑路も漸次明瞭になつて居り、日本民族の一部が朝鮮南部に居住し、其等が既に支那民族の器物を日本化しつゝあつたので、其の後日本の内地に於て更に大なる變化を遂げたと云ふことも漸次明瞭になつて來た。前漢時代に於て既に變形された銅鐸を日本民族が製作した證跡を見るときは、其等のものが變形されずに、支那製作品を其まゝ受取つた時代は、必ず其れ以前でなければならぬのである。然る時は、少なくとも戰國の末年には既に支那文化は日本民族に播及してゐたと見なければならぬ。日本の歴史なり傳説なりに於ては殆ど其の時代に相當した事實を全く有たず、支那文化が最初に日本民族に及んだ時代は、未だ日本民族は國家らしき團體を形成して居なかつたと斷言するを得る。是れは單に日本民族に依つて其の事を知り得るのみならずして、支那文化を受けた支那の周圍にある各種族は、殆んど皆是と同一の徑路を採つて居ることが餘程有力なる傍證になるのである。例へば、高句麗、三韓の如きそれであつて、高句麗國は、其の形づくられる前に、先づ其の地方が支那の行政的支配を受けてゐた。即ち高句麗國は遼東の一部分、今日の滿洲の興京地方で初めて國を成したのであるが、其の國を成さない時分、既に漢では其地方に玄菟郡の高句麗縣を置いてゐたので、前漢の末期、支那の統治力が一時弛んだ時に、初めて支那の行政區域内に半ば
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