獨立した土民の部落が出來、それが漸次に發達して後の高句麗國となつたので、其れは即ち王莽時代のことである。其れでも高句麗國は朝鮮民族中には最も早く國を成したので、當時三韓地方は未だ全く國を成さなかつた。三韓の諸國が初めて國を形成したのは、多分後漢の中頃からであらうと思はるゝので、其の時分漢では朝鮮全部を郡縣として、其の行政區域内に包括してゐたのであるが、後漢の中頃以後、統治力が弛んだが爲めに、茲に初めて三韓の七十餘國と云ふ多數の小部落が形づくられたのである。尤も其の以前、即ち漢が朝鮮を郡縣にしない前、既に支那の亡命者に依つて形づくられた朝鮮國があり、又更に其の以前にも箕子の朝鮮と稱するものがあつたと謂はれてゐるが、しかし、此箕子の傳説は前漢時代の支那歴史には甚だ不確實に記されてあるので、箕子以來の系統を延いた國が長く續いたと云ふ事實は、三國の時になつて初めて記録に現れた。縱し夫れが事實であつたとしても、其れは矢張り戰國の時、燕國の文化に刺激されて、始めて起つた傳説で、其以前から朝鮮民族が有つて居つた祖先傳説でないことは、支那内地の呉とか、燕とかの傳説と同種たるに過ぎない。やはり戰國時代に支那文化の及んだ後に出來たところのものである。
日本民族の國家成立は、殆ど高句麗と同時代であると考へられるので、三韓よりも早く開けてゐるが、兎も角其の民族が國を形成した徑路は殆ど同一である。勿論日本は高句麗、三韓の如く一度支那の領土になつた後に初めて民族の自覺を來したのではなくして、單に支那人が日本内地に移住し、若くは海上交通には民族形成以前から、特能を有つてゐた日本民族が、朝鮮支那の沿岸で、支那民族に接觸して、其れから民族形成の方法を學び、多少は自發的に國家らしきものを創建したのであつた。故に民族の搖籃時代から其の素質が朝鮮人よりかも優秀であつたと云ふことが認め得られる。譬へて云へば、從來の日本の學者の解釋の方式は、日本文化の由來を、樹木の種子が最初から存して、それを支那文化の養分に依つて栽培せられたと云ふやうに考へるのであるが、余の考へるところでは、例へば豆腐を造る如きもので、豆を磨つた液の中に豆腐になる素質を持つてはゐたが、之を凝集さすべき他の力が加はらずにあつたので、支那文化は即ち其れを凝集さしたニガリの如きものであると考へるのである。又他の一例を擧げて見るならば、兒童が智識
前へ
次へ
全7ページ中5ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
内藤 湖南 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング