漠たる推定ではない。然るに考古學の進歩によつて漸次知られてゐる遺物は、少くとも其れ以前からのものがある。しかも、其の當時の遺物が、既に明かに支那文化遺物の變形であるといふことを認めしむるものが多い。
近頃銅鐸に關する研究、古鏡に關する研究等は急速に進歩して來たが、銅鐸と云ふものは大體に於て支那の鐘から變化して、しかも支那人の歸化人でないところの土着民族が、其の意匠を加へて造つたものであると認められる。其の銅鐸の手本となつた支那器物は、何うしても先秦時代から支那民族に用ゐられたものであつて、其の土着民族によつて變形された時代が、已に耶蘇紀元以前であるといふことは幾多の證據を擧ぐることを得る。引續き著しき遺物は古鏡であるが、古鏡の發掘せられたものは、現に前漢時代即ち耶蘇紀元以前のものと考へられるものが、九州の北部、畿内の一部に發見せられ、後漢時代には既に畿内地方に於て漢鏡を變形したところの日本民族製作のものが多數に發見せられる。其の文化の通過した地理上の徑路も漸次明瞭になつて居り、日本民族の一部が朝鮮南部に居住し、其等が既に支那民族の器物を日本化しつゝあつたので、其の後日本の内地に於て更に大なる變化を遂げたと云ふことも漸次明瞭になつて來た。前漢時代に於て既に變形された銅鐸を日本民族が製作した證跡を見るときは、其等のものが變形されずに、支那製作品を其まゝ受取つた時代は、必ず其れ以前でなければならぬのである。然る時は、少なくとも戰國の末年には既に支那文化は日本民族に播及してゐたと見なければならぬ。日本の歴史なり傳説なりに於ては殆ど其の時代に相當した事實を全く有たず、支那文化が最初に日本民族に及んだ時代は、未だ日本民族は國家らしき團體を形成して居なかつたと斷言するを得る。是れは單に日本民族に依つて其の事を知り得るのみならずして、支那文化を受けた支那の周圍にある各種族は、殆んど皆是と同一の徑路を採つて居ることが餘程有力なる傍證になるのである。例へば、高句麗、三韓の如きそれであつて、高句麗國は、其の形づくられる前に、先づ其の地方が支那の行政的支配を受けてゐた。即ち高句麗國は遼東の一部分、今日の滿洲の興京地方で初めて國を成したのであるが、其の國を成さない時分、既に漢では其地方に玄菟郡の高句麗縣を置いてゐたので、前漢の末期、支那の統治力が一時弛んだ時に、初めて支那の行政區域内に半ば
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