暇ないが、大體右の如き研究法に依りて、やゝ自由に考へ得らるゝ所の結論だけを、茲に聊か述べて見たいと思ふ。
 大體此の日本が倭國として支那に知られたのは支那の戰國の末年からであると思はれるが、支那の戰國の末年は東洋全體の各民族にとりて重要な時期であり、從つて支那史が東洋史となるべき基礎を形成した時代であると云ふことが出來る。支那は春秋戰國時代に於いて疆土が分裂し、内亂にこれ日も給らなかつた樣であるが、然し其の爲に支那民族の發展を著しく擴大した。春秋の末年に既に南方に於いて呉若しくは越の如き蠻夷が國を形造つた。それと同樣の事情に於いて北方では燕の國が形造られた。而して戰國に入るに從つて數十の國々が段々に併合されて、戰國の末年には僅かに十ヶ國内外になつてしまつた。而して互に富國強兵の術を競うて、國力の發展に務めたが爲に、内部にあつて四面強國に限らるゝ國の外は、皆外部に向つて發展した。楚がます/\南嶺山脈の谿間谿間に生息せる苗族を追ひ詰め、秦が巴蜀地方を併合し、趙が北方の匈奴と戰端を開きて其の疆域を擴めたが、戰國の諸國中に最も弱國と云はれし燕の國も、遼東よりして遙かに朝鮮の半まで侵略するに至つ
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