態を研究して、それを本國の古代史に比較しようと試みたものもある。然し此の方法は其の外形が依然として本國中心主義であるが爲に、多數の低能な國學者には、其のきはどい研究法が理解せられずに終つたことが多い。明治以後史學が盛になつたと云つても、やはり此の本國中心主義が依然として國史界を支配して居り、少しきはどい研究法を用ゐると、動もすれば神職及び教育家等から道具外れの攻撃を受ける事を常とした。その癖、民族論並に言語學的の研究等に就いては、好んで其の系統を國外に求めんとする傾が盛であるに拘らず、國史の研究はどこまでも本國中心でなくてはならぬとし、日本國の成立せる素因を幾分外界の刺激に歸することさへも不都合とし、外國の材料に依つて研究することは、動もすれば記録の不確實なる朝鮮の歴史から推究さるゝことは寛容しながら、記録の確實なる支那の歴史より推究さるゝことを務めて排斥する傾が多かつた。それ故日本上古に關する見解の程度は、今日に於ても依然として國學者流の圈套を脱しない。これは今後の研究に於いて、國史上の一大問題とせなければならぬ。
今その支那の記録から見たる日本上古史に就いて、一々考證的に論ずるに
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