き、刀環の着いた刀劍を帶び、頗る豪奢の生活をして居つたと思はるゝので、勿論大和朝廷等は當時よりして既に高句麗夫餘等の王にも寧ろ過ぎても及ばざることなき立派な生活をして居られたらしく考へられる。日本の古代史の考證家若しくば畫家等が、やゝもすれば古代の帝王其の他の生活を畫くに、無闇に簡朴なる状態に之を表現するけれども、是等は全く誤りであつて、存外支那の王侯と餘り異ならない生活をなし得たものと考へられる。必要上書契こそ自ら使用しないけれども、其等は歸化人の通譯官の家柄の者に任せて居つたので、其の他の點に於いては其の生活に於いても、思想に於いても、やがて聖徳太子の如き偉人を産出すべき素養は久しき以前より段々に具へつゝあつたのであると思ふ。それで後漢以後六朝時代の交通は、書契を自ら司らざる爲に、名分と云ふ觀念が充分に發達しなかつたのであるが、其の他の國内に於ける統治の機關、或は海外貿易を取締るべき機關として歸化人の史等を使用し、それ等が漸次に記録を造りつゝあつたと云ふことは、即ち聖徳太子時代に於て國史編纂をなすべき基礎になつたので、聖徳太子は其の上に外國に對する名分の觀念を明白にして、從來通譯官
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