まり日本人の僞はらざる性質、正直な性質を發見したのであらうと思ひます。それが後になつてから、賀茂眞淵、本居宣長と云ふ人達が支那の學問に反對して一種の自分の國の特別な性質、日本人の本當の尊い性質と云ふものを鼓吹する樣になつたのも、さう云ふ事から流れを引いて居ると思ふのであります。然し世態の變遷もあり、今日では其の時分の思想を丸寫しにして、其の儘に應用も出來ない樣な點がありますが、兎に角從來の支那文化の外に、日本特有の文化の要素を有つてゐることをあらはしたのであります。それは丁度其の以前の南北朝時分に北畠親房の神皇正統記の中に、日本は神の國で支那よりも印度よりも、萬世一系の皇室を戴いて居ると云ふ事が大變尊いと云ふことを云つたのと問題は異ひますけれども、同じく日本の國情の中に特別な發見をした點があるのであります。斯う云ふことは、寧ろ日本が支那文化の衣を脱いで、自分が丸裸になつてから得た所のものでありまして、日本人は正直を尊び、ありのまゝなる姿を尊ぶことを特色とするやうになつたのでありますが、それが皆此の暗黒時代に他の國との關係を大部分失つた時分に出來て居ります。それがつまり日本人の一種の性質でもあり、一種の又文化の特質でもあります。之が日本人が自分で造り出した所の文化の素質です。
 日本の國語の法を發見する事、日本人の性質としての特別な點を發見する事、國體の特別な點を發見する事、さう云ふ事は鎌倉時代から足利時代の暗黒時代にかけて發見した事であります。それはやはり何處の國民でも皆文化ある國民は有たなければならない所の條件であります。さうして其の外に支那から傳へられて來た文化で、どうしても失つてならないものは、皇室なり公家なりが文化の權威として、非常な難儀をしながらも傳へて居るのであります。一條兼良などは應仁の戰亂の爲に其の邸宅は何れ燒けると覺悟して、澤山の本を文庫にしまつて避難したのでありますが、果して兵火の爲に第宅は燒けて、文庫は殘りましたが、兵士等は庫に何か金帛などがあるだらうと思つて、庫から本を出して箱や何かを叩き壞して、火を付けて燒いたと云ふので、聲をあげて哭いたといふことであります、さういふことで書籍の保存なども出來なかつた事を悲んで居ります。又其の當時樂の家で笙の祕曲を傳へて居た豐原統秋の書いた體源抄には、戰亂の間に其父と叡山に避難して傳授を受けたが、將來其傳を失つては不孝になるからとて此書を書いたことを述べて居ります。さういふ樣に其の當時朝に夕をはからざる危難の間に、文化階級の人として、さう云ふものをどうしても失つてはならないと云ふ考へで、皇室なり公家なり、諸職の人々が一所懸命になつて暗黒時代にも保存して、それだけは日本がどんなに亂れても失はなかつたものであります。さうして殘した所のこの文化は、初めはたとへ支那から來たものであつても、支那人でも日本人の樣に懸命になつて殘した歴史はないのでありますから、それに比べると日本人が其の文化を命懸けで殘した事は、之は自分の文化と云つても宜しいと思ひます。支那から借りて着た着物でも、支那人が丸裸になる時に、日本人は其の一枚だけは兎に角脱がなかつたと云ふことは、それは日本人の物と云つて差支へないのであります。
 さう云ふことで其の當時、日本人が保存し、或は新しく造つたものをだん/\調べて見ますと、其神道、歌道、物語の傳授とか書道の傳授と云ふものは、即ち我邦の哲學でもあり文學でもある、即ち文科理科、西洋でアリストテレス以來傳來して來た所のものと同性質の者を含んで居るのであります。それから暦法、陰陽と云ふ樣なものは、支那人が傳へて居た數術、或は印度で云へば吠陀の中にあるもので、之も同じく日本人が暗黒時代に保存して居たのであります。但し以上の如き京都の文化と云ふものは、さう云ふ樣に皇室が非常に衰微した時代に傳へられたのでありますからして、兵科に關するものはなかつたのであります。昔有名な八幡太郎義家は兵法を知らないと云ふので、大江匡房に就いて兵法を稽古したと云ふことがありますから、其の時分には兵法も公家が權威を有つてゐたのでありますが、足利の亂世には、この支那から傳來した兵法は多く失つたのですけれども、地方の武家が又學者達を聘んで、兵法の書を講じさせて聽くと云ふ所から多少は殘つた點もあります。それが後になつて日本では天文、永禄から元龜、天正の頃になりますと、武家が各々自分の兵法を發明して、武田家は武田流、北條家は北條流と云ふのが出來ましたが、之も實は武田信玄の存生中に武田流が出來、北條氏康の時に北條流があつたのではなく、多くは其の家が亡びてから何々流と云ふのが世の中に現れて、一種の兵法學者の看板で飯を食ふ人間が出來たのであります。しかし兎に角其の頃には支那傳來のものゝ上に、日本人は特別な兵法を考へたのでありまして、殊に日本人は兵法と云ふ語を武術の意味に用ゐることになつて、それが得意であつて、大變な流行でありましたが、不思議なことにはそれが逆輸入でもありませんが、日本の武術は倭寇の爲めに支那に傳はり、支那人の當時の著述(武備志の如き)に日本の武術の型やら説明やらを載せるやうになつたのであります。これは倭寇が支那へ押入る時に、その撃劍が支那人を驚かしたので、支那人が日本武術に注意する樣になりました、これは從來永い間日本に支那文化を輸入したが、逆に日本の文化を支那に輸出した所の最初のものであると思ひます。其の外に又鐵砲があります、鐵砲は天文十一年かに葡萄牙人が種子島にもつて來たと云ひますが、日本で一種特別な狙撃の法が發達致しまして、其の狙撃の法は、朝鮮役の時大いに支那人を惱ましました。尤も石火矢や大砲は支那の方が日本人よりも進んで居りましたが、此の小銃で狙撃するのは日本人特有のものでありまして、朝鮮で七八年も永い間戰爭して居る間に、朝鮮人が日本人から傳授されまして、それが後になつて支那人に大變調法がられた事があります。それは清朝の康煕年間、今から二百餘年前に露西亞の有名なペトル大帝の時にシベリヤの、ネルチンスク、アルバジンと云ふ所で、支那の兵隊と衝突した、其の時に朝鮮人が鐵砲を撃つ事が上手だと云ふので、朝鮮人から銃手を呼び出して戰爭させて居ります。それは即ち日本人が鐵砲に就いて特別な發達をしたものが朝鮮に傳はり、それが西洋人と戰爭する樣になつた不思議な因縁であります。それは最初西洋から渡つた武術でありますけれども、日本人が一種の利用法で日本式な小銃の術をやつたのであります。それで京都で握つて居る文化の中には、兵科に關したものはありませんが、それは日本中一般に流布して居つたのであります。
 さう云ふ事で、兎に角印度なり支那なり西洋なりに於て文化の要素として數へられて居た條件は、日本の暗黒時代に有ゆる外國から輸入された文化の着物を脱いだ後に、新たに發明され、或は保存されて存して居たのでありますから、日本人は文化的要素を持ち得る條件を備へて居ると云ふ事は申す迄もないのであります。之が即ち日本國民は文化を有し得る國民と云ふ證據にならうと考へられるのであります。
 もう少し之は吟味して、材料も十分にして發表すべきでありますけれども、兎に角之に就いて最初の意見の發表を此處でやらせて頂かうと思つて申上げたのであります。
[#地から1字上げ](「日本及日本人」第百八十三號及第百八十四號、昭和四年八月十五日及九月一日發行)



底本:「内藤湖南全集 第九卷」筑摩書房
   1969(昭和44)年4月10日発行
   1976(昭和51)年10月10日第3刷
底本の親本:「増訂日本文化史研究」弘文堂
   1930(昭和5)年11月発行
初出:「日本及日本人 第百八十三號、第百八十四號」
   1929(昭和4)年8月15日、9月1日
入力:はまなかひとし
校正:菅野朋子
2001年12月12日公開
2006年1月20日修正
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