云ふものを必修の科程としてやつたと云ふことは、大體に於て支那や印度の學問の分類と自然に一致すると思ひます。さうして見ると、何處の國民でも文化を有つ國民が有つて居る所の學問の大系は、大體同じものと云ふことが出來ます。
 そこで日本がさういふ文化に必要な學問を有ち得しや否やと云ふことを詮索するにはいかにすれば可いか、日本の樣に外國の文化を始終受けて居た國民は、之を詮索するのは餘程困難であります。日本は聖徳太子以後、平安朝の頃迄、支那の文化を丸呑みにして居た時の學問と云ふものは、恰も唐の代の學問でありまして、其の時代に於て之だけの條件が皆備つて居ても、それは支那の文化を丸寫しにした條件が備つて居るのであります。日本國民はそれを傳へて理解したと云ふだけであつて、本來それを有ち得べき素質があるかと云ふことは斷言し難いと思ひます。それから最近徳川時代になつて又支那文化の再輸入が殆ど三百年間續きました。其時に日本人が如何なる立派な學問をしてゐても、やはり支那の學問の殆ど皆鵜呑みであつて、日本國民でなくても眞似をし得る國民なら出來る事でありますから、それでは文化を有ち得る國民と云ふ證明にはなりません。それでありますから外國の學問を丸寫しにした時代では吟味が出來難い。そこで私は日本が昔の奈良朝、平安朝時代の支那人から受取つた所の文化を殆ど皆失つて、さうしてまだ徳川時代の支那文化の再輸入して來なかつた時代、日本が非常に戰亂に荒らされて暗黒の時代となつてゐた足利時代、特に應仁、文明以後に於て之を調べる必要があると思ひます。勿論さう云ふ暗黒時代は折角支那から輸入した多くのものを失つて居ります、其の當時の貴族の學者、例へば一條禪閤兼良と云ふ樣な學者がありますが、さう云ふ人達は戰亂の爲めに古來相傳の文化を失つたと云ふ事を非常に殘念がつて居る。勿論當時古來相傳の文化を失つた事は悲しむべき事であつたに違ひありませんが、さう云ふ樣に人から借着をして居た着物を皆脱いでしまふと云ふ時には、丸裸の姿を見るに極く好い時代であります。其の時代は日本が文化的素質を有つて居るかどうかと云ふことを見、さうして又それを吟味するに都合の好い時であります。
 然しそれを吟味するには一寸一通りの吟味の仕方では難しいのでありまして、色々な考へ樣をしなければならない。私はやはり支那の事を考へる樣に目録學の方から考へて見度いと思ひました。其頃の日本の目録としては本朝書籍目録と云ふのがありまして、之は仁和寺書籍目録とも申します。之は仁和寺にあつたものを寫したからさう申すのであります。傳へらるゝ所に依りますれば、其の作者は清原業忠と云ふことになつて居ります。之は足利將軍義教の時の人でありますが、足利の世は此義教の時から不安定になりかけたのであります。此の人が赤松滿祐と云ふ家臣に殺されてから、世の中が亂れかゝつたのでありますが、此の義教の注文で書いた目録だと云ふことになつて居ります。之は其の當時の目録を全部書いて居る譯ではありませんけれども、之に載つて居る目録の分類の仕方を見ると云ふと、大體此の當時に必要な書籍の程度が判ります。此の目録は神事、帝紀、公事、政要、氏族、地理、類聚、字類、詩家、雜抄、和歌、和漢、管弦、醫書、陰陽、傳記、官位、雜々、雜抄に分類されて居ります。其中神事、帝紀、氏族、地理、和歌は日本固有のもので、公事、雜抄、管弦、雜々の中にも幾分固有のものがあります。之が前に申しました應仁の亂の前に當りますので、將に日本は支那から來た文化の着物を脱ぎかゝつて居りますけれども、まだ皆脱ぎ切つて居ない時であります。それでありますから、此の中には日本人が丸裸になつてから發見した所の文化的要素のみを見はしては居りません。之は一面には支那文化の傳來と、それから日本の古代から傳つて來た所の宗教上の儀式とか、色々な種類のものを其の中に有つて居りますが、文化國民が有ち得べき要素を、裸になつてから見出したと云ふ其の證據は、此の目録に依つて見ることはできません。然し足利の亂世に於ても日本人がその古來相傳して來た所の文化をどれ程大事にして居つたかゞ判るのであります。さうして此の目録以後に新しく出來たものゝ中に文化的要素があれば、それが眞の日本人が素ツ裸になつてから發見した所の文化であります。それがあるかどうかと云ふことでありますが、それが今日から考へると貧弱なものでありますけれども、有ることはあるのであります。其の有ると云ふ點が、甚だ我々にとつて心強いのであります。
 どう云ふ事かと申しますと、其の後、應仁、文明以後の亂世で、御承知の如く皇室は非常に衰微あそばされたのであります。數年前東山御文庫を整理される時に、私も取調員の一員を汚しましたが、御文庫に後奈良天皇の宸翰で、天文十四年八月二十八日の宣命案がありました、それは伊勢の大神宮に即位後二十年大嘗會を行はせたまふことも出來ないと云ふことを謝せられた宣命であります。今の天皇陛下が皇太子であらせられた時に之を御覽になりました。それ程極端に困つて居られても、支那から傳來した文化の或るものを、どうしても手離されなかつたものがありますが、さう云ふものは例へば借着であつても、之れ一枚脱いだら凍えて死ぬからと云ふので手離さないものは、自分の作つたものと同樣に値打があると思ひます。さういふものがあります。それから又其の他に本當に寒くて叶はないからと云うて、自分で拵へて着る着物がある、それが自分の本當の着物であります。それらがつまり日本人が暗黒の時代でも離さなかつた并びに生み出した所の文化であります。
 其の時にどうしてもさうなつて來ると、文化の中心になるのは帝室であります。帝室ではどう云ふものをどうしても離さずに持つて居られたかと云ふに、一つは歌道の傳授であります。古今集の傳授とか、伊勢物語とか云ふ樣なものゝ傳授で、それから同じく必要なものは書道の傳授、音樂の傳授、之は神樂などの如く日本で出來た音樂もありますが、支那から傳來したものもあります。兎も角も斯う云ふものは、帝室が非常に困窮して居られる時でも御父子代々で御傳授になつて決して失はなかつたのであります。この歌道の傳授は應仁、文明の戰亂によつて、殆ど絶えんとしましたが、後土御門天皇はその祕説を傳へて居つた關東の武士、東常縁を京都に召されて、歌道を再興せしめられました、又書道の傳授、音樂の傳授などは皆帝室が基であります證據は、御文庫の中に澤山に殘つて居るのであります。さうして其傳授の至つて尊いことは、世の中に如何なる歌道なり書道なりに堪能な人がありましても、其の傳授の根本は皇室でなければ權威がなかつたので、傳授の中心は皇室にありました。一例を申しますと徳川時代に於きまして近衞家煕と云ふ人は書の名人で、東山、中御門御二代の天子に御手本を上げられました程でありますが、さう云ふ名人であつても、やはり其の傳授は皇室から受けて居る。さう致しますと云ふと、其の時の皇室は政治上の權力はないけれども、文化の上の權威だけは最後迄離さなかつたのであります。どんなに御衰頽の時でも、それだけは御父子で御相傳をなされ、それが門跡、公卿などに授けられ、始めて世の中に其の道の權威と云ふものが出來たのでありまして、皇室は最後迄文化の權威は握つて居られたのであります。其の他の事は其の學科の種類に依つて、皆公家達の家々に權限を任せて居ります。勿論それは皇室の配下である處から代々持ち來つた家業であります。例へば暦法、陰陽に安倍家とか加茂家とか云ふものがあり、それが代々持つて居たのでありまして、其の家が其の學問を代々傳へて、さうして其の學問は其の家から傳授を受けなければ正しいものと云ふことにはならなかつたのであります。
 それから又丸裸の日本が文化の向上に、非常なる力を有つて居りましたのは、やはり神道の傳授です。此の時分の神道は、後の本居、平田といふ樣な人達の時から見れば、俗神道といはれて居るものでありましたが、然し其の當時の文化の上に於て必要な程度の解釋はせられるだけのものを有つて居ります。それは先程申しました耶蘇教の方でも、教會法等は羅馬法王が人間の魂を預つて居る、其の爲めに出來た教會の法律でありまして、此の法律を拒む者は、當時の國王でも何でも破門せられたのでありますが、どうもそれが間違つて居ると云ふので、西洋でも新教が出來ましたが、當時は其の教會法の下に服從しなければ正確な信仰といはれない。それと同じ樣に日本に於ても、兩部神道やら、唯一神道やらが如何に間違つてゐたかどうか知りませんけれども、兎に角其家の傳授を受けなければ正しいものとして承認されなかつたと云ふことは事實であります。それで神道は其の時分佛教の意味に於て解釋して、非常に考へ方が間違つてゐたと云ふ事は、徳川末期に神道を研究した人達の議論であります。これには種々の解釋の仕樣がありませうけれども、其の當時に於いては、佛教が日本に於ける最上の哲學でありましたから、最上の哲學に依つて神道を解釋したのであります。徳川時代の初から神道を儒教で解釋した人もあります。それから國學で解釋する人もありましたが、足利時代に於て佛教に依つて解釋すると云ふことは、つまり佛教が思想上の最上の權威であつたからであります。さう云ふことで暗黒時代の神道と云ふものは、殆ど完成してそれを握つて居たのが吉田家でありまして、それを日本中の神主に傳授した、此の傳授を受けなければ神道の權威がなかつたのであります、それで之は特に當時に於いて發明された所の一つの學科であります。つまり日本の古事記とか、日本紀とか云ふものは奈良朝時代からありまして、祖先の編成された歴史と考へられて居つたのでありますが、平安朝頃までは、其の神代の記事に哲學的の意味をつける事はなかつたのであります。所が鎌倉の末期から足利時代に於て出來た神道は、特に日本紀の神代卷を佛教で解釋致しましたが、こゝで神道に哲學的意味をつける樣になつた。そこで日本は初めて自分の國の歴史を出發點とした哲學を有ち得ることになりました。
 また和歌の方でありますが、和歌は即ち第一に國語の上に立脚致します所の文學であります。何れの國でも根本は其の國の國語が權威を持つのが文化の要素であります。國民が自分の國の言語の法則を神聖なものと考へることが、之が國民の有つ文化の第一の要素でありますから、何處の國でもあります。日本では國語の文法上、之も後になつて、新しい國學者、賀茂眞淵、本居宣長と云ふ人達から考へれば、それは間違つた文法であつたに違ひありませんが、兎も角も日本に國語の文法があり、又用語の制限があつて、其の制限に反すれば歌にならないと云ふことは鎌倉時代からあつたのであります。それが暗黒時代を經て、一つの文化的權威になつて、歌は二條家とか冷泉家と云ふ所から傳授を受けなければ歌が詠めないことになつたのであります。
 又此の時代に於て最も貴ばれた本に源氏物語、伊勢物語があります。源氏物語は男女の關係を露骨に書いたもので、今日から見れば之を講讀することは危險の樣に思はれるものを、そんなに尊崇したと云ふことは不思議な樣に思はれますけれども、そこに日本人が支那の道徳でもなく、印度の道徳でもない或る要求を滿たしたものがあるからであります。殊に支那の道徳とは實にかけ離れた考へ方をして居る、伊勢物語にしても、男女の關係のだらしのない所を書いて居りますが、其の間に日本國民の僞らざる人情を書いてあると云ふ事を、日本人が尊びました。戰國の末から豐臣太閤の頃に亙つて、歌學で有名な細川幽齋に其の門下の宮本孝庸といふ者が世間の便りになる書は何が第一かと聞いた所が、それは源氏物語だと、それから又歌學の博學に第一のものはと問うた所が、それも源氏物語だと云つたと云ふことがありますが、それは表面男女關係のだらしのない小説の中に含んで居る深い意義を日本人が發見する樣になつて、それを一種の日本文化と考へたのであります。之は今日から見れば色々な考へ樣をしなければならない點もありませうが、然し其の間に支那でもなく、印度でもなく、つ
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