必然の理由があるものと思はれます。それはどう云ふ事かと申しますと、支那には丁度今から千九百年前に、其の當時迄あつた所の、凡ゆる書物の目録を書いたものがあります。其の大部分の書物は今日失くなつて居りますけれども、之からつまり今日の支那の文化と云ふものは傳統を引いて來て居るのであります。兎に角支那では前漢の末頃に、非常に立派な目録學者がありました、目録と云ふと古來の書物の名前を帳面に記する丈かの樣に考へられますが、支那の當時の目録學と云ふものは、本の内容に依つて分類し、批評する所の一種の學問であります、其の學問を支那で其の當時考へた人があります。即ち有ゆる學問の總論を目録に依つてやる事を考へた人があります、私は其の人の學問を大變尊敬して居ります、それが有名な劉向、劉※[#「音+欠」、第3水準1−86−32]の父子であります。此の人達が當時有ゆる本を見まして、さうしてそれを一括して批評したものがあります。即ち前漢書の藝文志の中にこの劉向、劉※[#「音+欠」、第3水準1−86−32]の父子の學問の大略が殘つて居りますが、此時の目録には書籍を六種に分類して居ります。それは六藝、諸子、詩賦、兵書、
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