帝の時にシベリヤの、ネルチンスク、アルバジンと云ふ所で、支那の兵隊と衝突した、其の時に朝鮮人が鐵砲を撃つ事が上手だと云ふので、朝鮮人から銃手を呼び出して戰爭させて居ります。それは即ち日本人が鐵砲に就いて特別な發達をしたものが朝鮮に傳はり、それが西洋人と戰爭する樣になつた不思議な因縁であります。それは最初西洋から渡つた武術でありますけれども、日本人が一種の利用法で日本式な小銃の術をやつたのであります。それで京都で握つて居る文化の中には、兵科に關したものはありませんが、それは日本中一般に流布して居つたのであります。
さう云ふ事で、兎に角印度なり支那なり西洋なりに於て文化の要素として數へられて居た條件は、日本の暗黒時代に有ゆる外國から輸入された文化の着物を脱いだ後に、新たに發明され、或は保存されて存して居たのでありますから、日本人は文化的要素を持ち得る條件を備へて居ると云ふ事は申す迄もないのであります。之が即ち日本國民は文化を有し得る國民と云ふ證據にならうと考へられるのであります。
もう少し之は吟味して、材料も十分にして發表すべきでありますけれども、兎に角之に就いて最初の意見の發表を此處
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