、自分の國即ち支那の文化を取り入れたのではないか、さうして明治以後になつてから歐羅巴の文化、殊に最近に於ては獨逸の文化を丸呑みにして居るのではないか、何も自分の文化を持ち得ない國民で、少しもそんなに尊ぶには當らない、日本が非常に勢力が強くて盛んでも、若し之が亡びたら、後には何も殘らない國であるが、自分の國は大したもので自分の文化を持つて居る、自分等の持つて居る文化は、今日の進歩して居る國、古來進歩したどの國に比べても決して劣らないものを持つて居る、其の點で日本よりも遙かに自分等は優秀な國民だと云ふ事をいふ者が多くあるのであります。之は相當な理由のあることでありまして、日本の眞の歴史、つまり眞の文化の根本を知らずに日本の事を考へると、確に斯う云ふやうな考へになり得るのであります。然し私は左樣ではないと信じて居るのであります。が、然しさうでないと信じた所で、それを立證すべき確かな事がなくてはならぬと思ひます。
無理に之を立證しようとして、我國は二千何百年經つて居ると云ふやうな、有りふれた、日本人が普通に自慢する樣な歴史を言つたのでは、さう云ふ支那人などの連中はなか/\承知しないのでありま
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