死んだといふことが書いてあるのです。これは文化文政頃富永の惡口が盛んに行はれて、坊さんが富永に對し酷く反感を持つた時分の言ひ傳へであります。石庵に破門されたといふのも、其時の言ひ傳へでありますから、どれだけ之に信用を置いてよいか餘程疑問であります。但し黄檗山で藏經を見たといふ、これは事實だらうと思ひます。富永の作つた詩の中に、自分の家庭の面白くないことが書いてある。これは恐らく自分の母が兄に對して繼母である關係ではないかと想像されるのでありますが、しかしお母さんといふ人が非常な賢婦人であつたらしいのであります。お母さんの碑文といふものは、多分仲基の弟荒木蘭皐が書いたのでありませう。兎も角何か家庭に面白くない事情があつて、富永が一時自分から家を出て居つた、その間に黄檗に行つて居つたのかも知れませぬ。その時藏經を讀んだのだらうといふことは想像されるのであります。その外に多く佛教者から出た惡口は信用出來ませぬ。それから「出定後語」の版木を燒棄てたといふのは全く嘘でありまして、その後になつて平田篤胤がこの本を搜した時に、大阪の何處かの本屋の藏の隅から版木を漸く見付けて刷り出したといふことを書い
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