撃した本を書いて、石庵から破門されたと言ひ傳へてありますが、「池田人物誌」に西村天囚君の説を引いて、石庵の死んだ時富永は十五六であらうから、著述したにしても破門されるといふことはあるまいと書いてありますが、成程それが尤もであらうと思ひます。この三宅石庵から破門されたと言ひ出したのは佛教者の言ひ傳へであつて、佛教者が富永の惡口を言ふために、いろ/\の事實を捏造して居ることがあるやうです。富永が佛典を讀んだのは、黄檗板の藏經――今でも一切經の版木がありますが、それは富永より六七十年前に鐵眼の作つた版木であります、その版木を校合するため富永が傭はれて居つて、それがために佛教を學んだのであらう、それから佛教の惡口の本を書いたから、大變佛教の恩に背いて居ると、慧海潮音といふ眞宗の坊さんが書いてゐます。之と同じ話で段々異部名字式に變つて來た話でございますが、矢張り淨土宗の坊さんが書いた「大日比三師講説集」といふ本がありまして、富永は佛教の惡口を言うたので到頭癩病になつた。それから大變後悔して、坊さんを頼んで「出定後語」の版木を燒棄て、阿彌陀經千卷を書いて懺悔したけれども何等の驗しがなく、到頭癩病で
前へ 次へ
全42ページ中37ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
内藤 湖南 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング