が幾分か分つて參りました。
 この「翁の文」といふのは、どういふ本で、どういふ事を書いてあるかと申しますると、これは「出定後語」より四五年前に書いたものでありますから、恐らく富永の二十代の著述かと思ひます。二十代で非常な頭をもつてゐたものと思はれます。この中に書いてあることは「説蔽」に書いてあると同じで、支那の學問研究の原則を與へたものであります。それは大體斯ういふ風に考へました。孔子の生れた當時、その當時は五覇の盛んな時である。齊の桓公、晉の文公といふのは當時の覇者であります。その覇者の盛んな時であつて、孔子はその時一般の人々が覇を尊んで居つたので、その上に加上して、文武といふことを言つて居ります、周の文王・武王といふことを言ひ出した。孔子の後に墨子が起つて、墨子は文武の上に更に堯舜のことを言ひ出した。その上に今度は楊朱が黄帝を言ひ出した。それから孟子に書いてある許行がその上に神農のことを言ひ出した。これが支那に於ける加上説である。思想の上からすれば、孟子に書いてある告子が、性には善惡なしといふ説を唱へたのである。孟子は性善説を唱へた、荀子は性惡説を唱へた、斯ういふ風なのは加上説であ
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