、斯う極めたがるのである。どれもよい加減で、どれが本當か分らぬと諦めるといふことが、どうも歴史家といふものは出來にくいやうであります。どれか一つ確かなものと極めたいといふ考へがあります。ところが記録のある時代は、どうかするとそれを一つに極めることが出來ます。併し記録がない、話で傳はつて居ります時代のことは、どうしても極めにくいです。さういふ事は、いつそのこと思ひ切つて極めない方がよいんですが、それをどうも皆んな極めたがるのです。その極めにくいといふことを原則にしたといふことは、大變私はえらいと思ひます。
これは支那の非常に古い時代に、斯ういふことを考へた説があります。支那の春秋公羊傳の中に、所見異辭、所聞異辭、所傳聞異辭とあつて、それを一つの歴史上の原則にしてあります。これも見る所、聞く所、傳聞する所各※[#二の字点、1−2−22]違つて居るので、どうもどちらが事實と一つに極められないといふことであります。この傳説時代の事は、思ひ切つてさういふ風に極められぬと極める方がよいのであります。それを歴史家などは、傳説時代の事でも、どれか一つを事實として、その他は誤り又は僞にしたい。それがた
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