代の初期の大阪の學問は醫者が兼業して居たといふが、大阪醫科大學が現時大阪の學問の中心であるといふならば、丁度それに相似て居るのも面白い對照である。
 徳川時代の大阪の檀那衆の典型ともいふべき人で、私の知つて居るのは故平瀬龜之輔氏であつた、聞くところによると、平瀬氏は何を聞いても知らぬと言はれたことはないが、其の自分の商賣の事だけは何一つ知らなかつたといふことである、ところが平瀬家は商賣の方で振はないことがあつたが、其時は商賣に關係なしに唯道樂で集めた骨董品で商賣の損害を償はれたといふ話がある。此の徳川末期の町人の門閥家の代表的人物である平瀬氏は幸にして知つて居たが、今後明治大正以後の新しい大阪で學問ある町人の典型を私共が生きて居る間に見ることが出來るであらうか、どうか早くそれを見たいものだと樂んで待つて居る。
[#地から1字上げ](大正十年某月大阪に於て講演)



底本:「内藤湖南全集 第九卷」筑摩書房
   1969(昭和44)年4月10日発行
   1976(昭和51)年10月10日第3刷
底本の親本:「増訂日本文化史研究」弘文堂
   1930(昭和5)年11月発行
初出:大阪
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