くの如く大阪の町人の後援により而も大阪の僧鐵眼によつて爲された藏經であるが故に、富永仲基の如きも手易く藏經を見ることが出來たものであらうと思はれる。
鐵眼は元禄以前に死んだが、是より後に出て佛學の新研究をした人は葛城の慈雲尊者(前に中河内の高井田に居た)である。此の人は眞言律宗の僧とはいひながら、何の宗旨にも囚はれず、殆ど各宗を統一し新しい見解をたてた人であつて、梵語の研究を纏めたといふ樣な功績があり、日本の佛教の新研究には重大な關係を持つて居る、此の人は寛政を中心とした時代に居つたのである。
大阪の學問はかくの如く平民的、民衆的になつて來たが、これは享保年間が中心時期である。此の時代は京都にも江戸にも、見ることが出來ない學問の特色を發揮することが出來たのであつて、これは大阪なる都市が經濟の都市としても、江戸にも京都にも勝れて居つた時代であつたが爲めに、かくの如き他に見るを得ざる平民化の特色を發揮し得たものであらうと思ふ。
其の後は左樣には參らず、國學も此の地に發祥したが他に移り、淨瑠璃の如き通俗文學も其の價値は減ずる樣になり、人形芝居の如きも人形ばかりが發達して淨瑠璃の文句の方
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