使用人の學問となつて終つたものである。これが享保以後の特別目立つた大阪の學問の系統である。
 かくの如く町人が門閥になつてからの檀那衆の學問を代表するものは木村蒹葭堂である。蒹葭堂は酒屋の檀那であつたが、此の人の學問は商賣には何の關係もなく、又道徳の修養とかいふ爲めでもなく、ホンノ道樂が昂じていろんなものを集めた結果から纏めることが出來た學問である。其の他種々な學問もあり、いろんな學者も大阪に出來て居るが、大體の筋道は先づ以上の通りであつて、題して大阪の町人と學問とはいふが、大阪文化史の一部とも見ることが出來よう。
 明治以後は全くこれとは別であつて、徳川時代に於ける大名を對手とするといふ樣な商賣の仕方が亡び、新しい時代の大阪となつたが、是を時代的に觀ると、現時の大阪は丁度桃山時代から寛文延寶頃の大阪に相當するものであつて、時代の文化といふ方面からいふと、全く今の大阪は暗黒な時代である。檀那衆即ち今の言葉でいふ資本家から大した學問のある人も出來ず、さりとて使用人の方からも大した學者も出て居ない。強ひて明治時代の大阪の學問を代表するものを需めるならば、それは大阪醫科大學位であつて、徳川時代の初期の大阪の學問は醫者が兼業して居たといふが、大阪醫科大學が現時大阪の學問の中心であるといふならば、丁度それに相似て居るのも面白い對照である。
 徳川時代の大阪の檀那衆の典型ともいふべき人で、私の知つて居るのは故平瀬龜之輔氏であつた、聞くところによると、平瀬氏は何を聞いても知らぬと言はれたことはないが、其の自分の商賣の事だけは何一つ知らなかつたといふことである、ところが平瀬家は商賣の方で振はないことがあつたが、其時は商賣に關係なしに唯道樂で集めた骨董品で商賣の損害を償はれたといふ話がある。此の徳川末期の町人の門閥家の代表的人物である平瀬氏は幸にして知つて居たが、今後明治大正以後の新しい大阪で學問ある町人の典型を私共が生きて居る間に見ることが出來るであらうか、どうか早くそれを見たいものだと樂んで待つて居る。
[#地から1字上げ](大正十年某月大阪に於て講演)



底本:「内藤湖南全集 第九卷」筑摩書房
   1969(昭和44)年4月10日発行
   1976(昭和51)年10月10日第3刷
底本の親本:「増訂日本文化史研究」弘文堂
   1930(昭和5)年11月発行
初出:大阪
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