代になつては、單に支那の織物のみならず、南洋印度邊までの産物にも及んで居つて、其の範圍も種類も益々廣くなつて居る。
此の唐と宋との間は、織物にとりても一の大きな變化の時代であつたらうかと考へられるので、支那人の好尚も、其の間に頗る變化して居る樣である。大體唐以前は、一般の好尚は薄物《うすもの》、透き通るものを好む傾向がある。勿論厚手の織物も其間に有つたにはちがひないけれども、一般には厚手は貴ばれない。例へば厚※[#「糸+曾」、第3水準1−90−21]を命名して※[#「糸+弟」、第4水準2−84−31]と謂ふが、※[#「糸+弟」、第4水準2−84−31]といふものは織物の下等な種類のものと考へられて居つた樣である。ところが宋以後はだん/″\厚手の織物が發達して來て居る。現存して居る※[#「ころもへん+表」、第4水準2−88−25]裝切、茶器に關する切でも、皆唐以前の如き薄い種類のものは無い。但僧侶の袈裟とかいふ樣な、古代の形式を保存すべき必要のあるものには、古い製品と同樣の薄物《うすもの》を使用したりして居る。
明の頃から以後は緞子が發達して來た。此の緞子に關しても、支那人には一種の誤解をなして居るものがある。緞子は昔は段と謂うたといふので、漢代から存在するといふ説をなして居るものがある。それは文選に見ゆる張衡の四愁詩に、
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美人贈我錦繍段。
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とある。此が緞子だといふ説であるが、それは恐らく謬見であらうと思ふ。唐の時代には、地方の貢物の中に、貢段と謂ふものが六典等に現はれて居るが、それさへも今日の緞子だとは考へ得られない。紫野の大徳寺に大法被といふものがあつて、それに元代の繍をした織物を一部分に使用してあるが、其の織物を綉段と命名して居る。それは其の切《きれ》に文字を縫うて、其の文字に綉段とあるから、これが綉段たることを知り得るのである。然し其の織物は今日の緞子とは異なるらしく思はれる。眞の緞子は恐らくは明代以後のものであらうと思ふ。勿論段といふ字は、即ち段匹といふ織物の分量を現はした詞であつて、張衡の錦繍段といふのも錦繍の分量を現はしたのであり、唐の貢物の貢段も、織物の分量を現はして其の織物たることを自然に知らしめる詞を使用したのである。明代には諸國から貢上する織物を朝廷で收めて置く處を段匹庫と命名し、それからして
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