當時盛に貢上せられた織物を緞子と稱することとなつたもので、今日の如き緞子はやはり明代以來のものであらうと想はれるので、其の名目が同じいからとて、此の織物を漢代迄上す譯には行かぬ。
宋代明代の織物の名稱は、文獻にも屡々現はれて居つて、之を實物に引き合はせることも割合に困難ではないと思ふ。殊に宋代以後に貴ばれた刻絲の如きは、即ち京都で謂ふ綴《つづれ》であるが、此等は※[#「ころもへん+表」、第4水準2−88−25]裝切などに使用せられて現存して居るので、之を文獻に引き合はすことが難くない。明代の織物などでも、一例を言へば、嘉靖年間、時の權相なる嚴嵩が失敗して家産を沒收せられた時に作られた目録があつて、それ等を見ると織物の名稱が隨分多く出て居る。斯の如きものを、今日に傳來して居る所の明代の織物に比較すれば、自然に其の一致點を見出すであらう。
大體織物も長い歳月の間に變化を經て、昔存在した織物で早くなくなつて居るものもあり、又後世になつて新に出來たものもあり、其の名稱の變化もあることであるが、此等を出來るだけ實物と文獻とを一致させることが、即ち織物研究の基礎を爲す所以であつて、從來の茶人等の取つた方法にばかりよらずして、歴史的な考へ方をそれに加へるといふ事が必要であらう。茶人等の研究は、前にも言ふ通り、古くとも宋代位で止つて居つたが、今日に於てはそれよりも以前の唐代ぐらゐ迄のものを對象とする必要があらう。其の目的を達する爲には、學者と專門家との協力を必要とするので、織物學會の如きが其の機關として働くことを希望して已まない。
それから次に我々が織物研究に就いて必要なることは、織物の多くが支那産で、稀には南洋其の他の産もあるが、大部分は支那であるから、其の爲に支那の名目と日本の名目の對照といふことが研究上必要となつて來る。これは日本では餘程古くから考へられたことであらうが、整備せられて書籍に現はれて來たのは倭名抄の如きものからである。
近代に至つて新井白石の東雅などには、單に支那の名稱と日本の名稱との對照に止まらずして、日本名を有せる支那織物に對して、更に歴史的變遷の迹を考へる樣になつて來た。例へば倭名抄以前からの織物につけられた織物名が、今日では一般に通用されないものになつて、其の日本名のものが今日で何と呼ぶかを研究せなければならなくなつた。それであるから、近代の倭名
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