司る鴻臚寺などの官吏と諜し合はせて、うまく上表を作り、それを支那の天子に上りてその自尊心を滿足させ、思ふ儘に日本朝廷の使命を果たして歸るので、之が當時の使者及び譯官の祕訣であつたに相違ない。斯の如きことは遙に後世まで支那では行はれたので、明代に於て四譯館に保存されてあつた各國の上表などに據つて考へても善くわかるので、譬へば滿州地方の女眞人からの上表などには女眞文字女眞語で上表を書いてはあるが、其の文法は支那語の文法で、先づ支那文が出來てからそれを女眞語に直譯した形迹の歴然として存するものがある。其の國字を有つて居る國の上表でさへも斯の如くであるから、全く支那文字を以て書く上表の如きは、其の作り法《かた》の支那の朝廷に都合よく書かれると謂ふことは當然のことで、南朝時代などに於て日本とか百濟高句麗などが上つた表と謂ふものの、如何にして出來たかは想像するに難くない。
 又た船首の官などが置かれた時代は大分海外交通が頻繁で、朝廷の近い處即ち河内と大和との界で、淀川大和川に入つて來る船を檢査する爲にそれが置かれたのであるが、其の以前は其の檢査を遙に遠い九州の入口で行つたので、漢委奴國王の印が志賀
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