建設したと謂ふ點に於ては聖徳太子以上の人は無い。
聖徳太子は永い日本の歴史に於て啻に佛教家に尊崇されるのみならず、大工左官などの職人の祭る神としてもあがめられて居るのは、明らかに其の作者たることを證據だてて居るものと謂つても宜しい。それが爲に佛教に反對し施《ひ》いて聖徳太子にも反對する所の儒者でさへも、聖徳太子の作者たるの點に於ては異議が無いので、恰も支那の聖人と謂はれる人々と同じ意義に於て之を作者と稱したのである。其の文明の建設者としての事業の中最も主なることに就いて茲に二三述べてみようと思ふ。
太子の外交方針
其の第一は外交に關することである。一口に謂へば日本が獨立の國家たることを國人に自覺せしめ、それと同時に外國にも認めしめたのは太子であると謂つて宜しい。其の點を明らかにするに就いては聖徳太子以前の外交の歴史を説く必要がある。
日本の海外交通の事實は、我々が日本の古代史に於て知つて居るよりも遙に古いものと思はれる。山海經に在る倭の記事は戰國末から漢初までの記録であらうと思はれる。引き續き漢の武帝が朝鮮を平げて其處に四郡を置いた時に、樂浪の海中に倭人あること
前へ
次へ
全17ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
内藤 湖南 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング