蘇我氏と太子

 後世の國學者儒者から最も太子を攻撃するのは、馬子の弑逆を處分せなかつたことであるが、是亦時勢をも事情をも考へない議論である。馬子が弑逆を行つたと謂ふことは、今日から見れば明白な事實であつても、當時は下手人は別にあつて、而も馬子はその下手人を自ら殺して居る。形迹が顯はれない上に、當時の太子は廿歳にも達しない少年である。蘇我氏の權勢が絶頂に達して居る歳とて、若し太子が馬子に對して事を擧げて敗れたならば、皇室に如何なる危害が及んだかも知れない。それ故に隱忍して時を待ち、其の勝れた才徳を以て自然に馬子をも威服せしめ、蘇我氏の權力をも壓へる樣にしたことは、日本紀を讀んだだけでも分明である。
 太子の薨去せられて後に、馬子が推古天皇に葛城の縣《あがた》を領地にしたいと請うた時に、天皇は巧妙に之を謝絶せられた。天皇が崩去せられる時に、其の位を太子の御子なる山背大兄王に讓られる御遺言があつたが、これらは太子が推古天皇に生前よく/\進言して置かれたことと想像し得られる、それを馬子の子の蝦夷等が變更して舒明天皇を位に即け奉つた。其の後蝦夷は着々山背大兄王の勢力を削いで、遂に之を弑し奉つたが、其の經過を觀ると太子が生前に蘇我氏の勢力を削ぐ爲に、自分の親信する者をとりたてゝ居られたことがわかる。即ち境部摩理勢などが其の人であつて、此等は太子が在せば其の勢力の許に蘇我氏を壓へつける有力な人物であつた。唯山背大兄王が仁柔で父王の如き材略が無かつたから、此の有力な手足が皆先づ蘇我氏の爲に※[#「てへん+劣」、第3水準1−84−77]ぎ取られて、遂に王も禍殃を蒙るに至つたが、しかし其の失敗の迹に據つても太子の深謀遠慮を推測することが出來るので、太子は馬子よりかも年少であり、其の晩年までには必ず豪族を壓へつける希望を達せられる目算であられたに相違ない。其の出來なかつたのは運命であるから致しかたがない。聖徳太子の如き位置にある人の批評をするのには、斯かる前後の情勢を考へなければならぬ。匹夫の任侠の徒が臂を攘げて一己の志を行ふ者と一樣には論ぜられないのである。

 斯の如く考へ來れば、太子は作者として、人格者として、殆んど缺點の無かつた人と謂ふことの出來るくらゐである。近頃になつて太子の一千三百年忌に、いろ/\な企に據つて太子の功徳が頗る表彰されたが、しかし其の間には古史に關す
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