隋以前に隋の國情をば出來るだけ調べられたことであらうから、隋の政治改革をも知つて居られたかも知れぬ。さうすれば此の憲法の趣意は益々以て天皇の大一統主義と解釋すべきものであつて、今日の日本の國體の起源を開いたのは太子であると謂つてよろしい。唯太子は此の主義を實行するに至らずして早世し給ひ、後に三十年程を經て大化の時に主として天智天皇が之を實行せられたので、其の功績は孝徳天智の兩天皇に歸すべきであるけれども、兩天皇の改革は聖徳太子の宏遠な理想規模に據つたことは疑の無いことで、之は單に其の主義から謂ふばかりでなく、大化革新の主なる參謀であつた人々、南淵請安、高向玄理、僧旻など謂ふ人々は、皆聖徳太子が妹子につけて隋に遣はした留學生である。天智天皇にしても藤原鎌足にしても、此等の新智識が無かつたならば、決してあれだけの破天荒の鴻業を爲すことが出來なかつたであらう。して見れば大化革新の功績は其の主要な部分を、やはり聖徳太子に歸せなければならぬ譯である。

       佛教採用の一理由

 聖徳太子が佛教を盛にしたことに就いて、今日では格別に攻撃する人も無くなりつつあるが、一時國學者などは歴史の文を曲解してまでも惡口を謂つたので、譬へば推古天皇の十五年に神祇を祭祀することを怠つてはならぬと謂ふ詔勅が出て居るが、これだけは太子の意志でなくて、推古天皇の思召であると解釋し、太子攝政時代の中の事實にまで斯の如き選り別けをして太子を攻撃した。之は今日の史眼から見れば謂はれの無いことで、太子は佛教を盛にすると共に神祇をも崇敬せしめたに相違無い。それに就いて考ふべきことは當時佛教の如き新しい宗教を取り入れる必要が日本にあつたことである。之は明治の維新でもわかるが、維新以後迷信に關する淫祠を禁じ、或は巫女の職業を禁じた樣なことは、太子の時代に於ては最も必要があつたに違ひない。日本の探湯の刑罰、或は蛇を瓶の中に置いて之を訴訟の兩造者に取らせることなどは隋書にも出て居るくらゐであるから、一般に行はれて居つたに相違ない。かゝる迷信を除く爲には、當時最も合理的に進歩した宗教と謂はれる佛教の如きは極めて必要であつた。佛教は其の後になつて日本の迷信を利用して修驗道やら眞言宗やらが興つたけれども、太子時代に輸入された佛教の極めて理論的であることは、太子の著述なる三經疏に據つても知ることが出來る。

   
前へ 次へ
全9ページ中7ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
内藤 湖南 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング