とをしたのだと論じてゐる。然るにそれは看方の不完全な點があるので、實は禹稷皐陶を三后とするのも、禹稷伯夷を三后とするのも、つまり儒家の中で三后といふ者を立つる各の家學の相違である。即ち齊へ行つた儒家は齊の國の姜姓と關係ある伯夷を三后の一人とし、秦に行つた儒家は秦の先祖と認めらるゝ皐陶を三后に入れた差異であつて、是は孰れが正しく孰れが謬るとも言へない。唯禹稷伯夷を三后としたのは稷下の儒家の思想を表はし、禹稷皐陶を三后としたのは秦國へ入つた儒家の思想を表はしたまでゞある。尤も當時既に齊國は田氏で、姜姓の國は無くなつてゐるのに、稷下の儒家は何故姜姓の伯夷を入れる必要があつたかと云ふに、それは齊國は、田氏の代になつても其の崇拜する所は依然桓公管仲であつたからである。今日の管子は勿論田氏になつてから出來た書であるにも拘らず、桓公と管仲とを理想として書いたものに相違ない。孟子が公孫丑に對して子は誠に齊人なり管仲晏子を知るのみと言ひし時も、既に田齊の宣王の時代であつた。かゝる點より考ふれば甫刑は齊國に對する曲學の意味より尚書に入つたものであることが明かに推測し得られる。若し詩の例より考ふれば、周頌の
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