數へてゐるのである。さて斯かる疑問の生ずるのは何人が考へても自然である。是は公羊學派の説く如く詩書は皆正より變に入つてゆくものであつて、詩に於て最後に魯頌、商頌のあることは一の疑問であると同樣に、尚書に於ても以上の諸篇のあることは異例とすべきものである。是に就いては五帝三王の外に五覇をも認める意味でしたものだとする公羊家の解釋も一應は首肯されるが、然しそれでは落ち付きの惡い理由は、前に述べたる如き孟荀等正統の儒家の思想と一致しないといふことである。
予は之に對して同じ疑問より出發して、異つた結論に到達することになつたのである。即ち孔子以後儒家の人々が主として戰國の諸國に用ゐられ、各其國の用を爲してゐる間に自然に曲學阿世の風を生じたものと看るのである。公羊學の成立は漢代に於ける曲學阿世の最明白なる證據と謂ふべきもので、單に公孫弘が武帝個人の意を迎へたのが曲學阿世であるのみならず、董仲舒が漢代に適合すべく春秋の學を解釋して、それに由つて百家を斥け學問の一統を圖つたのも半ば曲學の方針から出たことは疑ない。漢代に於て此の如く曲學阿世の風が行はれ、董仲舒の如き人物でさへも此の如き方針を取るに至
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