紀の最後に在つて、其下に八覽六論があるから、此八覽六論が後から附け加へられた跡が確に見えるが、その十二紀八覽六論を通じて、呂不韋死後の事實若くは文字と思はれる者を含んで居る。然るに今日の呂氏春秋は大體に於て漢書藝文志の時代の形と大差ない、且其中の八覽は太史公も之を見たのであつて、不韋蜀に遷されて世に呂覽を傳ふ[#ここから割り注]太史公自敍及報任少卿書[#ここで割り注終わり]と言へるを觀れば、呂氏春秋の形も亦やはり太史公以前に變化してゐることが考へられる。それでは何故に斯かる變化が早くより一般に行はれたかといふに、章學誠は之を説明して、周末の諸子は皆各其道術を以て後世に傳ふることを主とするものであつて、苟も其術を顯はして其宗を立つるに足りさへすれば、前に援述すると後に附衍すると未だ立言の功を分つことがない[#ここから割り注]文史通義言公上[#ここで割り注終わり]と言つてゐる。つまり當時は各學派に在りて後人が段々附け加へてゆくことが自由であつたので、斯の如き變化は僞作とか竄入とかの意味に解釋されずして、各其學派の學説の敷衍として視られたものである。或意味より言へばそれは其學派の發展であつて
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