據として擧げた禹貢の沿于江海、達于淮泗の二句を、反つて淮泗が江に注ぐの證とした、焦循の孟子正義は趙注の決、排兩字の注を據として、下流の注入でなく、上流の交會であると、巧妙に解釋したが、要するに皆禹貢が孟子より古く、孟子が之を見ぬ筈がないといふ前提から發したもので、本來は孟子の説が禹貢と違つて居ると見るのが穩當で、孟子は禹貢を知らなかつたと考へて差支ない譯である。墨子の兼愛中篇にも禹の治水を敍して、南爲江漢淮汝東流之注五湖之處以利荊楚于越南夷之民とあれば、禹の治水に關する傳説に、自ら此一派があつて、禹貢とは異つた尚書があつたのであらう。
(二)宋の王柏は論語の堯曰篇首の二十四字を堯典の脱簡なりとして、舜讓于徳弗嗣の下に補つた、又同篇の曰予小子履以下四十六字は、墨子兼愛篇に引ける湯説と殆ど一致し、(論語の孔注には墨子に湯誓を引けるといつて居る)雖有周親以下四句は、兼愛篇の武王が泰山隧に事ふる祝詞と粗ぼ同じである。又墨子に引ける尚書には呂刑、大誓、仲※[#「兀+虫」、第4水準2−87−29]之誥等、今の尚書と同名の者の外に、今の尚書と異名同實の禹誓(甘誓)武觀(五子之歌)等があり、同名異實の湯誓などがあり、今の尚書に全くなき術令、相年、禽艾、湯之官刑、禹之總徳等もある。
(三)朱子語類卷第八十二に左傳是後來人做。爲見陳氏有齊。所以言八世之後。莫之與京。見三家分晉。所以言公侯子孫必復其始。
(四)一二の例を擧げて見ると、
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左傳宣公六年、晉の趙盾が靈公を弑せる事の傳は、公羊傳、國語晉語、呂氏春秋過理篇などに出て居り、同十三年の楚の莊王が宋を圍んだ事の傳は、公羊傳、韓詩外傳、國語晉語、呂氏春秋行論篇などに出でゝ居り、成公四年の梁山崩の傳は、公羊、穀梁二傳國語晉語などに出でゝ居り、或は説話に變化があり、或は思想にも異つた點がある。
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(五)蘇東坡の洪範に關する説は、東坡書傳に出でゝ居る。東坡は洪範の外に、康誥洛誥に就ても異見がある。余※[#「壽/れっか」、第3水準1−87−65]が洪範を改正せんとした事は宋の※[#「龍/共」、第3水準1−94−87]明之の中呉紀聞卷二に見えて居る。
(六)王柏の説は其の著なる書疑に出で、堯典、皐陶謨、益稷、洪範、多方、立政諸篇に於て、皆其の錯脱に注意し、己
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