蔡侯一虜、熊貲始大、楚之覇業、先於五邦、呂命穆王、實作自呂、征彼九伯、浸及齊桓、晉秦之興、復在其後、覇者之業、相循而作、帝王之統、由此一變、史伯之對鄭桓言秦晉齊楚代興、史※[#「にんべん+擔のつくり」、第3水準1−14−44]之見秦獻言別五百載復合、運會所乘、惟聖賢能見其微、孔子序五篇於書之終、中候之文究於覇免、所以戒後王制蠻夷式羣侯、不可以不愼、
[#ここで字下げ終わり]
と言つてゐる。此二人は近世公羊學の大家であるが、恐らく二人とも其受くる所が同じかつたに相違ない。此議論に於て最疑問とすべきは儒家が覇道をも併せて述べたと言ふ解釋の仕方である。孟子に據れば、仲尼の徒桓文の事を道ふものなし[#ここから割り注]公孫丑上[#ここで割り注終わり]と言ひ、荀子にも仲尼の門五尺の豎子も五伯を稱するを羞づ[#ここから割り注]仲尼篇[#ここで割り注終わり]と言つてゐる。果して然らば尚書に蔡仲之命以後の各篇を收めてゐることは明かに儒家の主張としては矛盾を來すわけである。そこで魏源の如きは書古微を作る時周書に關する微義は甫刑を以て終りとし、今文家の篇目から云へば其以後の文侯之命、秦誓をも除き、其以前の費誓をも除いて、而して其除いた諸篇の代りに逸周書の中から蔡公解、※[#「くさかんむり/内」、第3水準1−90−67]良夫解などを拔き出して之を甫刑の後に補つて、而して
[#ここから2字下げ]
案※[#「くさかんむり/内」、第3水準1−90−67]良夫之詩、夫子既取入大雅矣、此篇斷無不見之理、且其忠告憂勤、※[#「亠/(「覺」の「爻」に代えて「同」、「見」に代えて「且」)、第4水準2−1−20]々乎成康周召之遺、與無逸君※[#「爽」の二つの「爻」に変えて「百」、第3水準1−15−74]相表裏、視蔡仲之命文侯之命、不可同年而語、不此之取而取彼何哉、即秦誓亦一時悔※[#「肴+殳」、第4水準2−78−4]之敗、而三次報復、濟河焚舟、顯存王覇之分、且時代亦遠在西周之後、何爲殿彼不殿此耶、此皆不可解者、姑附諸穆王之後、以雪僞古文之憾[#ここから割り注]書古微十二[#ここで割り注終わり]
[#ここで字下げ終わり]
と言つてゐる。兎も角公羊學派の人々は尚書の末尾に費誓以下、甫刑、文侯之命、秦誓の諸篇のあることを重大なる疑問と考へたことは疑ない。尤公羊學派は僞古文を斥けず、それ故宋翔鳳は此外に蔡仲之命をも
前へ 次へ
全15ページ中7ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
内藤 湖南 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング