]尊、これがやはり「隹王二祀」と出て居ります。以上は皆銘文の終りに年の出て居ります例であります。
 それでかういふ風に篇末に紀年のあるのは、大體所謂西周の銅器にだけあるのでありまして、東周以後の銅器には殆どありません。これは餘程古い紀年の書き方と言つてよろしからうと思ふのでありますが、それとこの洛誥の紀年の書き方と一致しております。ただ洛誥には七年としてあつて、七祀としてありませんが、かういふのは、記録が段々傳はつて居る間に、後出の分り易い文字に書き直すことはあり得るのでありまして、例へば司馬遷の史記の中に尚書を引用した處を見ますと、色々原文の文字を易へて居ります。訓詁の字を以て易へたと云はれて居りますが、やはり古い記録を新しく傳へる時は、分り易くして置く必要がある所から、かういふ風に文字を書き直すことはあり得ることであります。
 ともかくこの召誥・洛誥が尚書の中で、記録された時代が最も古いもの、確かなものと云つてよからうと思ふのでありますが、處でこの召誥の中に、この歴史的思想といふやうなものが餘程はつきりと現はれて居ります。大體支那の歴代は、最も古い時代に夏が代つて殷となり、殷が代つて周になつたと申しますが、夏が代つて殷になつた時の確かな記録といふものは、今日では分りませんので、尚書の中に殷の湯が夏を征伐した時の湯誓・湯誥といふ誓誥の類はありますけれども、これらは大體物語で傳はつて居つたのが、或る時代に記録に書き入れられたらしく思はれますもので、全く初めから記録で保存されて居つたとは考へられませんのです。それのみならず、その夏以前に一體支那はどれだけの歴代があつたか知りませんけれども、ともかく夏が殷になり、殷が周になるといふことは、支那では餘程古代史上の大事件であつたのでありませうが、夏が殷に代つたといふやうな、ああいふ一つの朝廷が一つの朝廷に代つただけでは、まだ歴史といふものの考へがさう著しく現はれて來ないと思ふ。ところがもう二つも代つて來ますといふと、そこに王朝の變化といふものが餘程痛切に一般の人に考へられることになるものと見えまして、支那でこの夏殷周といふ三代に就ては、色々の點から考へられて居ります。後になつては、それに三統説といふやうなものをつけまして、さうして各※[#二の字点、1−2−22]その時代の特色を言ひ現はしたりなんかします。ともかく三代といふも
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