たので、これより支那の目録學の分類がやかましくなつた。
しかし鄭樵の議論には、往々理論が勝つて、實際に行ふと間違ひ易いこともある。即ち「闕書備於後世」「亡書出於後世」「亡書出於民間」等の論で、その闕書後世に備はるといふのは、同じ本が前に卷數少く後世に多ければ後に備はつたと考へた。亡書後世に出づといふことも、昔なくなつてゐたといふ本、例へば尚書の孔安國傳の舜典が漢に出でずして晉に出た――これは誤り――と云つてゐるが、これらは後に出る僞物のことを念頭におかなかつたのである。亡書の民間に出ることも、その主もな例として色々の本を擧げてあるのは、大部分は僞書である。これは單に目録の學の理論のみを主として、その本の内容眞僞如何を考へるに至らなかつた爲めである。かかる缺點があり、藝文略を書く上にも色々な缺點が出たが、理論に至つては、彼が始めて現はしたのであつて、從來は理論が編纂された目録の上に何となしに現はれてゐたに過ぎなかつたのを抽出して纏めたのである。この校讐略のために支那の目録學ははつきりしたのである。
高似孫の史略・子略
鄭樵の藝文略・校讐略が出てから、南宋時代には、色
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