傾きを多く持つてゐるのは、ともかく、漢の時代にかかる傾きを生じたところから、一度出來上つた傾きを、いつまでも持つてゐた爲めと考へられる。それが支那の國の學問としての特殊の性質、支那文化の特殊の性質となつたのである。

       著述流別の源

 勿論劉向・劉※[#「音+欠」、第3水準1−86−32]が、著述の流別を考へたといふことも、その源は更に古くからある。これは恐らく戰國の頃からしてすでに、諸子百家の間に論爭の行はれた結果、自他の學派を區別する必要から、次第に出來たものと考へられる。春秋戰國以來の諸派の學問の中では、勿論儒家が最も早く發達した。從來から、殊に近來の支那の學者は、道家の方が儒家より先に發達したと考へるが、さうではない。儒家の方が早く發達したのであるが、その代り、同じ儒家の中で學派の分れたことも最も早かつた。儒家の諸流派については、すでに論語に見えてゐる。論語の成立が最も古いといふ譯ではないが、ともかく論語の中に、すでに流派の區別のあることが見える。即ち子張篇に、子游・子夏・子張などの人達が、各※[#二の字点、1−2−22]孔子から聞いたことにつき、異つた意見を傳へ
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