なつて居り、つまり通用の俗字であつたのであらう。しかし劉向の頃より、俗字を正しい古文の文字に復さうとする學問的傾向があつたらしく、彼は一一これを直したのである。ともかく戰國策にかういふことが斷わつてある爲めに、古※[#「金+木」、377−4]の中にある肖の字が趙と同じ字であることを知り得る。
 この校正といふことは、非常に古くより起り、劉向以前から既にかういふことは起つてゐたと思はれる。孔子家語――劉向以後の僞作と云はれ、確かな本とは云はれないが――の中に、孔子の弟子の子夏が、歴史を讀んでゐるものが「晉師伐秦三豕渡河」といふ文句を讀んでゐるのを聞き、三豕は己亥の誤りであると注意したといふことが書いてあるが、その眞僞はともかくとして、支那人は古くから校正に意を用ひたらしい。公羊傳の中にも、やはり文字の誤りがあるのを、孔子が直接に見た事により今の本の誤りを正したといふことがある。劉向に至つて、校正を大仕掛にやり、色々の本の誤りを正した。校正のことを校讐といふことも、別録に見え、向が始めて云つたのであると云はれる。一人が本を讀み、一人がそれに對し別の本を持ち、引合せてゐる形が、怨のあるものが
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