ものである。
大體、漢書藝文志は、班固が自分で書いた處は、最初の敍文ぐらゐの僅かばかりで、その全體の大部分は、劉※[#「音+欠」、第3水準1−86−32]の七略によつて書いたのである。七略の中の六略を採つて載せたので、七略の一つである輯略は藝文志には載せられてゐない。ところで、劉※[#「音+欠」、第3水準1−86−32]が七略を作つたのは、※[#「音+欠」、第3水準1−86−32]が創始したのではなく、その父の劉向が着手したのである。向が前漢の成帝の時より着手して、それを※[#「音+欠」、第3水準1−86−32]が仕上げたのであるが、それは前漢の哀帝の時である。哀帝の末年は西洋紀元前一年に當るから、大體西洋紀元の少し前頃に出來たものと思はれる。
この頃の學問は、多くは家の相續の學問で、劉氏も二代學者であるが、元來劉向の家は漢の宗室で、しかも不思議に宗室中で學問をした家である。先祖は楚の元王といつて、漢の高祖の弟である。馬上で天下を取つた高祖の兄弟ながら、學問好きであつたが、それ以來この家は學問が續いた。向の時になつて、成帝が天下の祕府に集まつた書籍の整理・校正を向に掌らしめたので、
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