の學問である。康熙帝が三藩を平げて支那を支配する形勢が定まつてより、明史編纂の爲め多くの學者を北京に集めた。これが清朝史學の隆盛になる根本である。當時學者として認められたのは、黄宗羲(浙江餘姚)と顧炎武(江蘇昆山)とであつて、前者は浙東學派の祖とされ、後者は浙西學派の祖とされる。清朝の史學はこの二人を中心として起つた。しかし二人は明の遺老である爲め、表面には出ず、この人等に關係ある主な人が中心になつた。即ち黄宗羲の弟子の萬斯同が明史編纂の第一の中心となつた。明史は成立までに六十年を費やし、多くの人が編纂に與つたが、事實は萬斯同が中心であつて、彼が北京にあつて、多くの學者の中心をなしてゐたのである。顧炎武の方は、彼の甥に徐乾學があり、康熙帝の氣に入りで、晩年南方に歸つて太湖の洞庭山に學者を集めて清一統志を編纂することを許され、ここに又多くの學者が集まつた。彼は直接に顧炎武の學を傳へては居らぬが、徐乾學と顧炎武との關係より、この地に集まつた人は浙西派の人たちで、これは多く經學となつたが、しかし目的が地理の編纂であつたので、中には顧祖禹などがあり、讀史方輿紀要を作つた。ともかくこの二つの學者の集團が清朝のあらゆる學者に關係し、又清朝前半期の學派をも生じた。萬斯同は記憶がよく、如何なる事實が何の書の何枚目にあるといふことまで覺えてゐて、非常に博學であつた爲め、明史を編纂する傍ら、一般史學に關して有名な歴代史表を遺した。大體この人のやり方は、古來ある歴史の缺を補ふもので、舊史を修補する學問とも云ふべきものである。徐乾學の方に集まつた中には、閻若※[#「王+據のつくり」、第3水準1−88−32]の如きは、古書の校訂を好んだ。從つてこの一派よりは舊史を考訂する學問といふべきものが出た。尤もこの考訂は、古く王應麟がその根本をなし、楊愼などもその風があり、顧炎武に至つてその方法が定まり、一派の人が之を受けついだのである。この舊史修補と舊史考訂との二つが、乾隆以前の清朝の史學の全體を總括すると云つてよい。その間には、沿革地理學があり、又金石で歴史を考證することなどは、顧炎武がその基礎をなしたことであるが、ともかくこの二つが主目的であつたのである。後に乾隆以後に章學誠の如き史論家が出て、清朝初期の史學は史學でないと云つた位である。歴史全體の主義としては、明史の如く史料を重んずる風で新唐書以來の學風を一變したのは、明の中葉以後に起つた主義であるが、明末遺老の起したのは、この舊史の修補と考訂との二つの傾向である。
底本:「内藤湖南全集 第十一卷」筑摩書房
1969(昭和44)年11月30日初版発行
1976(昭和51)年10月10日初版第2刷発行
入力:はまなかひとし
校正:小林繁雄
2009年7月16日作成
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