に至つたのであるから、これも輕々に看過してはならぬ。
 宋人の餘弊とも見るべきは明人で、彼等は自分の心を師として、濫りに古典を改竄し、本文の増減をも心の儘にしたのである。清朝人は宋以來古書改竄の餘毒に懲りて、漢學派と云ふ者が起り、つとめて舊文を墨守する方向に傾き、殊に經書に至りては少しも改竄しないと云ふ立場から研究した爲めに、研究法も非常に完備して、近來西洋でする科學的古典學の研究と全く同樣になつたのである。それ程完備したに拘らず、その效果の割合に少なかつたのは、茲に一の越ゆべからざる限度を立て、一切の經文を疑はぬと云ふ墨守の弊が、又之を爲さしめたのである。
 清人が經典の文辭を疑はぬと云ふことは、宋人に比して謹愼と云へば謹愼である。けれども、その説を立てる上に於いて、何時も撞着するのは、その限度である。之が爲めに、窮經上より見れば、幾らか退歩の傾があつたと云つて宜い。經書を疑はぬと云ふ規矩は殊に古代史の研究に一方ならぬ支障を來したのである。即ち歴史の研究法から見れば、どうしても疑はねばならぬことも、經書に明文があると云つて、其の疑惑をその儘に存置すると云ふのが、清人の學弊である。
 併し近代になつてからは、公羊學が盛になつて、その結果として從來許鄭の學を根柢として、經書の解釋に於いて、其説を疑はぬことにして居た家法を破つて、公羊學の流行した西漢の後までは疑つても宜いと云ふことになつた。これは支那古典學の一進歩であるが、今一歩進んで公羊學のまだ盛にならぬ時代、即ち儒家が學問を統一しない時の學問を根柢として西漢の學を疑ふ樣になれば、茲に第二の進歩が生ずる譯である。最近に於いては多少さう云ふ傾向を持つた者もある。
 古典に對する研究が大體以上の傾向をもつて進んで居る處へ、一面に於いて、金文の研究が盛になつてからは、それに據つて經文に疑問を挾む人も出來たのである。けれども、この派の學問はまだ十分に盛大を極むべき運に向つて居ないが、近來殷墟の發掘によりて其の遺物から推して、新しい研究法を發見し、それを經學の準據とする人が出る樣になつた。これもまだ十分ではないが、併し大體に於いて、從來研究法の發達から考へて、その歸著すべき場所が明かに解る樣になつた。
 即ち從來の研究を概括すれば、乾隆嘉慶の間は許鄭の學が盛んであり、道光以後は公羊學に進み、さうして今後進むべき道は、先秦古典の
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