の鄭樵が始めて目録學の復興を圖りました。通志には二十略といふものがありますが、其の中に藝文略といふものがありまして、目録のことが書いてあります。又校讐略といふものがありまして、校合することの理論やら方法やらが書いてあります。これで鄭樵が一家の目録學を著はして居るのでありまして、漢書の藝文志の缺點を論じ、それから北宋の時に出來ました崇文總目といふものゝ得失を論じて居ります。それで漢書の藝文志に対しては、劉向、劉※[#「音+欠」、第3水準1−86−32]のした方法を班固が物が分らずに改變したといふことを頻りに攻撃して居る。兎に角目録の學問に就ては、一家の見識を以ていろ/\の事を考へました。本を集めることから、分類の事、それから分類をするに就て、其の本の目録に小書きの注を書くべきものか書くべからざるものか、解題をすべきものかすべからざるものかといふことを論じて居る。それ等の中には奇拔な論がありまして、今日でも杜撰な解題の本などの弊に中つて居るものがある。例へば百中何々法といふ醫者の本がある。それを解釋して、百中とは病氣が何でも皆治るといふことだなどゝ解釋して居る。そんな解釋はすべからざるもの
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