、其の總評の仕方は、今日の目から見ると、劉向、劉※[#「音+欠」、第3水準1−86−32]が本の由來を論じ、得失を論じた如く徹底した考はありませぬ。しかし漢の時に目録を作つて、隋までの間に種々變つて居る、それ等のことを總評に於て大體現はして居る。それ等のことは隋書經籍志に於て遺つて居るのであります。隋書經籍志を作る時に、劉向、劉※[#「音+欠」、第3水準1−86−32]に及ばなかつたのは、一々の本に就いて批評が無かつた點であります。それは大事業であつて、なか/\えらいことでありますが、それが出來なかつた。これだけでも、隋書經籍志は、劉向、劉※[#「音+欠」、第3水準1−86−32]の七略に較ぶれば墮落をして居るのであります。
それで其の次に出來て來たのは舊唐書の經籍志であります。尤も其の間にもう一つ入れゝば入れられるものがあります。それは日本に遺つて居る日本國現在書目録であります。これは日本にある本とは申しながら、悉く支那の本であつて、冷然院といふ皇室の藏書所が燒けて、さうして又本を集めるといふことになつた時に、藤氏の南家の儒者の佐世《すけよ》と申す人が作つたといふことであります。こ
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