ふ風に、自分の見識で、これは多分晏子の言ではなからうと疑ふ所のものでありましても、それを削るといふことはしませぬ。さういふものはやはり一篇として遺して置くといふことを斷わつてあります。これは多分後世の辯士の僞造であらうけれども、兎も角遺して置くといふことを斷わつて居る。かういふ所で、劉向、劉※[#「音+欠」、第3水準1−86−32]の書物を校正する法則といふものが、今日でも分るのであります。
これは七略のやり方、即ち本の目録を作つて部類分けの總論を書く、其の總論には、書物の由つて來る所を部類によつて之を分け、さうして何々派の學者はどういふ所から出て來たが、其の流れはどういふ風になり、其の利益はどういふ所にあつて、其の缺點はどういふ所にあるといふやうな評をすること、それから又一々の本に就いて一々に批評をすること、さういふことを以て一種の目録を大成するといふ考が、此の七略のやり方でありますが、此の方法はやはり隋書の經籍志までは明かに遺つて居ります。隋書の經籍志は、前に申します通り、七部の目録を四部の目録に變へて居りますけれども、其の四部の目録としての總評を、一々部類分けにして附けて居つて
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