それから外から集めた本、其の中には、劉向自身が持つて居る本やら、其の外の編纂官の持つて居る本、又は其の他の者の持つて居る本を集めて校合をして居りますが、一通り校合の總體の事を申しまして、それから其の本の成立ちを論じて居ります。さういふものを一々の本に附けたのでありますが、それを悉く寄せたものが即ちこの輯略であらうといふのであります。輯略は今は遺つて居りませぬから分りませぬが、藝文志に書いてある所を見ると、さういふものであつたらしく思はれる。これが劉向、劉※[#「音+欠」、第3水準1−86−32]の目録の作り方の大體でありまして、兎に角此の時は、總論と各目録を寄せて七部に分けてあります。
其の後、支那の目録の作り方が、此の七部の分け方と、其の後に出來ました四部の分け方と、互ひ違ひに行はれて居る。七部の分け方も餘程長い間行はれて居りました。内容は漸々違つて來て居るが、ともかく長く行はれて居つた。それで現在は支那の分類は主もに四部であります。それは經書、歴史、諸子類、詩文集類と四部に分けてあります。此の四部の分け方の始めは、晉の時となつて居りますが、元來三國魏の時に出來た四部の目録がありまして、それに依つて晉の荀※[#「瑁のつくり+力」、第3水準1−14−70]が四部の目録を作つた。其の時、これを甲乙丙丁に分けた。其の順序は、經書が第一、諸子類が第二、歴史が第三、詩文集が第四となつて居る。所がそれから後になつて順序を變へた。晉は間もなしに非常な亂世になつて、王室は長江以南に逃げて、其の時に有らゆる本が皆無くなつた。それから江南地方で國を中興して東晉になりますが、此の時代に李充といふ者が四部の目録を作つた。此の時に順序が變つて、今日の如く經書、歴史、諸子、文集といふ順序になりました。此の荀※[#「瑁のつくり+力」、第3水準1−14−70]、李充の分け方が今日の四部の目録の始めであります。
しかし此の四部の目録が始まると、其の後皆此の法を採用したかといふとさうではない。後になつて又七部に分ける目録の作り方が行はれて居る。それは南朝の劉宋の時であります。其の時にやはり官の書籍を調べた王儉といふ人が七志といふものを作りました。それで此の分け方は、經典といふのが一つで、これは經書と歴史と一緒になつて居る。これはやはり劉※[#「音+欠」、第3水準1−86−32]の七略の分け方と同
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