を集めた。其の結果、どうかして保存をしたい、それにつけて目録を編纂したいといふ考が着きまして、遂に其の事を劉向に命ぜられたのでありますが、劉向がそれを命ぜられました時は、丁度西洋紀元の前二十四五年位の時であつたと思ひます、其の時に命ぜられてから、其子の劉※[#「音+欠」、第3水準1−86−32]の時までかゝつて完成したのでありますが、劉※[#「音+欠」、第3水準1−86−32]がいよ/\それを仕上げました時は、前漢の哀帝の時代といふことになつて居りますが、哀帝の時代といふのは甚だ短い年數で、五六年しかありませぬ、其の何年に出來上つたかといふことははつきり分りませぬが、兎に角五六年のことでありますから、其の最後の年と之を考へますと、大抵西洋紀元前一年位の時に當ります。兎に角紀元少し前にこの目録が出來上つたのは確かだらうと思ひます。
それから劉向の時は、書籍を校正しますのに、劉向一人でしたのではありませぬ。劉向が校正のことを書きましたものが、戰國策とか列子とか晏子春秋とかの卷首に今でも遺つて居ります。その外、漢書藝文志にも校正の始末が出て居りますが、それによると、やはり學者が數人共同して校正をしたものと見えますが、兎に角全部の書籍の中、半分位までは劉向自身が總裁の資格になつてそれを編纂したものらしく思はれます。其の外の半分は、これは一種の專門に渉る事柄であつて、專門の知識の無い者には一寸出來にくいことであるから、其の專門家を掛りとして調べたやうであります。例へば軍事のことは軍事の掛りで調べる、或は數術と書いてあるが、天文とか暦譜とか卜筮の事などである、これ等の事は各※[#二の字点、1−2−22]其の專門家が調べる、醫術の事は醫者の方で調べるといふやうなことにして、之を定めたやうであります。其の當時に於ては、最も其の知識を有つた人が、十分な調べをして校正したものと見えます。それが目録の出來始めであつて、其の時に出來ましたものを、劉向の方は之を別録と致しました。即ち劉向が本を見て居る間に、校合をした上に、自分の考によつて各※[#二の字点、1−2−22]の書籍の大意を論じ、又は誤りをも辯じたものを別録として書いたのであります。それは今日勿論纏まつた書としては遺つて居りません。それから劉※[#「音+欠」、第3水準1−86−32]になつて七略といふものを作りました。其の中、六略
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