と東洋の古代といふやうなことは單に東洋の古代といふやうなものでなくして、日本の歴史の無い前の時代、日本の文化の由つて來る所を知るに必要なものであります、西洋歴史に致した處が、英、佛、其他現在の諸國の創立はソンナに古いものではありませぬが、其の古代史たる希臘羅馬を除外して粗末に取扱ふことは決して無い、希臘羅馬の古代の文化を知らなければ各々の本國の文化が分らないことになる、日本の支那に於ける關係は然ういふ所を參酌しなければならぬ、單に自國に關係のないことと云ふことで以前のことを切捨てると、そこに間違つた見解が出て來るかと思ふ、古代のことは日本史と東洋現代に關係のあることと云ふことにしてありますから、其所に注意すれば宜しいのでありますが、此の關係のあることといふものを巧みに書いて、然うして間違ひなく其の系統を立てるといふことは、專門の歴史家でなければ出來ぬことで、中々困難のことであらうと思ふ、それで今日の中等學校の教科書は隨分專門の學者も書きますが、然うでない者が書けば、一寸したことでも誤つて教科書を書いて文部省の檢定を受ける、文部省の檢定官にも間違ひない人ばかり居るかと云ふと私は然うは信ずることは出來ませぬ、一寸檢定官が誤つた見方でそれを通して教科書にすると、多くの人は其の先例に據つて教科書を作る、今日では私共同僚の桑原君の教科書は東洋歴史の標準といふやうになつて居る、多くの教科書の標準として桑原君のやうな專門家の確かな物が手本になると好いけれども、一寸誤つた物を書いてそれが檢定されました時に、其れに據つて澤山の教科書が出來ると、檢定官も前に出來たものゝ例に依つて檢定するやうになつて居る、其の誤の例で自分が發見して居る事項もある、それを擧げろと云へば私は何時でも擧げてお目にかけます、詰り檢定官の智識が餘り當てになりませぬ、夫だから若し教科書の方針を變へるといふやうなことが出來て來ますと、餘り極端に走ると云ふやうな傾きが起らぬかと思ひますから、其點を中等學校に於て其の職務に從事して居られる方は充分御注意下さることを希望する次第であります、丁度斯ういふ問題が出て居りますから一言御注意を申上げて置きたいと思ひます。
(大正四年十二月六日中等學校地理歴史教員協議會講演)[#地より1字上げ]



底本:「内藤湖南全集 第七巻」筑摩書房
   1970(昭和45)年2月25日発行
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