卒徂落殪死也を以て終つてゐることである。これから生ずる疑問は釋詁篇が最初に出來た時は崩薨無禄卒徂落殪死也の一節が未だ無かつたのみならず、釋言が釋詁の體裁に從つて爾雅に附加へられた時にも猶此の一節が無かつたのではなからうかといふことである。而して更に其の次に起る疑問は此の一節の中で崩薨無禄卒の四語は皆春秋に見はれた所の文字であることであつて、始也の中に春秋の中の言葉を含んで居らないことゝ對照して、益々春秋の製作が最初の釋詁の出來た後に在るのではないかと思はしめるのである。
 更に此の死也の一節から生ずる疑問は徂落といふ尚書堯典の中の文字が釋詁の増益せられた部分に存在してゐることである。之と相應じて同じく疑問とすべきは爰粤于那都※[#「搖のつくり+系」、第3水準1−90−20]於也との一節である。この一節は粤于爰曰也と爰粤于也との二節の次に見えてゐて、前の二節は郭璞からして既に轉た相訓ずと解してゐるが、此の一節は前の二節に較べると明らかに附益せられたものなることを知り得るのである。その中都の字は郭璞の注にも皐陶曰都を引いてゐる如く、明らかに皐陶謨から取つたものであるが、それが前の二節に對して後から附益せられたと思はれる一節の中に見えてゐるのは注意すべきことである。然かも徂落とか都とかいふ文字は決して當時の通用語ではなく、何か古語か若しくは方言かであつて、其の一般に行はれたらしく思はれぬ語であることも注意すべきである。これらの點に依つて典謨の諸篇が晩出の書であるといふ疑問をも生じ、又その晩出の書は多く務めて古語若しくは方言の如き通用語ならざるものを含んでゐて、其の書が最初の爾雅よりも以後に現はれて來たのではないかといふことが考へ得られるのである。猶ほ之と相關聯して考ふべきことは平均夷弟易也とある一節の中の弟の字である。此の字は堯典の中に古文では平秩東作とあるのを、今文には平秩を便※[#「豊+弟」、29−16]に作つてゐることに依つて、今文の方の文字が爾雅に見えてゐるといふことも考へられ、又同時に此の弟の字なども所謂互訓といふ重複の證據はないけれども、矢張り後來の附益でないかとも考へられるのである。それから又鬱陶※[#「鷂のへん+系」、第3水準1−90−20]喜也の一節に就いて考へねばならぬことがある。それは鬱陶の字である。この字は今の尚書には見えて居らない。然しながら孟子滕文公篇に舜のことを書いて古書を引いたらしく思はれる文があつて、それは從來の學者も既に注意して舜典の一片であらうとまでいはれてゐるが、其の中に鬱陶の字が見えてゐるのである。それで最も多く詩書の語を含み、詩書以外の語を餘り含んで居らぬ釋詁篇に鬱陶の字が見えてゐることは、それに依つて從來の學者の舜典の一片であらうと云ふ説が多分當つてゐると考へ得られるのである。勿論これは互訓の證據とすべきものが無いのであるが、恐らく徂落とか都とかいふ文字と同じ時に釋詁に増入せられたものに相違無からうと思ふ。
 釋言篇は大體釋詁の體裁に倣つたものであるが、其の篇首の殷齊中也といふ一句は、此篇の出來た頃の時代思想の特徴を表はしてゐるとも謂ふべきものである。釋地篇の九府の條に東西南北其他八方の産物を擧げて、最後に中有岱岳、與其五穀魚鹽生焉とあるに依つても、岱岳の附近を支那の中央と考へる思想が或る時代に存在してゐたことが分るのであるが、これと一致した思想は又同じく釋地篇の四極の條に、距齊州以南、戴日爲丹穴、北戴斗極爲空桐、東至日所出爲大平、西至日所入爲大蒙とあつて、郭璞も齊中也と注して居り、齊州とは即ち中州といふ意味に用ゐられてゐる。丁度此の思想と釋言の齊中也との思想とは大體一致するのであつて、恐らく戰國の頃文化の中心が齊にあつた時、即ち稷下に多く學者が集つた時代の思想と推測し得られるのである。それから殷中也に就いては、郭璞は書の堯典の以殷仲春で解釋してゐるけれども、齊中也と同じやうな意味から來たものとすれば、殷も地名と考へてよいのである。殷を中央とする思想は矢張り孔子を素王とする思想と關係があるので、殷中也との解釋は恐らく孔子素王説の起る頃に出來たのではないかと思ふ。さうすると釋言の篇首に此の二つの異つた思想が一句に含まれてゐるのは如何といふに、恐らく最初は殷中也だけであつたのが、後になつて齊中也が竄入せられたのであるかも知れない。それで大體から考へても釋言の全體の體裁は釋地などの體裁よりも古樸に出來てゐるから、釋言の製作は殷中也との思想の起つた時代にあると見るのが適當であらう。さうすると大體七十子以後孟子以前の時代と考へてよからうと思ふ。從つて釋詁が其の以前に出來たとすれば、周禮大宗伯の疏に爾雅者孔子門人作以釋六藝之文言とあるのが、必ずしも無稽といふことが出來ぬのである。
 次は釋訓篇であるが、邵晉涵が此篇所釋、始乎明、終乎幽也といつた所から考へると、釋詁篇が單に始也に始まつて、終也に終つた最初の體裁に※[#「にんべん+方」、第3水準1−14−10]つて作つたのではなくして、死也で終るやうに附加された後の體裁に※[#「にんべん+方」、第3水準1−14−10]作したといふことが分る。此篇は一篇中前後兩節に分け得るやうに出來てゐて、前半は主として詩書に見えてゐる疊辭の解釋であるが、後半即ち朔北方也以後は頗る雜になつてゐる。尤も前半も其の末の方即ち子子孫孫引無極也以下の部分は其の前と體裁を異にし、前の部分は疊辭の解釋とはいへ、猶其の釋しかたが簡單であつて、釋詁釋言に近い體裁を存してゐるに反して、子子孫孫引無極也以下は直接に其の言葉の解釋をするのではなくて、頗る詩序の體裁に近くなつてゐる。それから後半の中で前の部分は既に書傳若しくは春秋公羊傳などの解釋を含んで居り(一)[#「(一)」は自注]、又或る部分は全く今日の大學の文句そのまゝである。即ち如切如磋道學也から有斐君子、終不可※[#「言+爰」、第4水準2−88−66]兮、道盛徳至善民之不能忘也までがそれである。又後半の末の部分は揚雄の方言などゝ類似した所もあつて、益々その後世の附益たることを疑はしめるのである。然しそれでも履帝武敏、武迹也、敏拇也と解釋してゐるのを見ると、これは詩の大雅生民篇の解釋であるが、恐らく三家詩と一致するものであつたらしく、毛傳とは全く解釋を異にしてゐるのである。これらの證據から考へると、四庫全書提要に爾雅の出來たのを毛傳以後と考へてゐることが頗る薄弱になる。今日三家詩は傳つてゐないが、釋訓篇の存在することによつて、三家詩の序の體裁は大體斯くの如きものではなかつたらうかといふことが想像し得られるのである。毛傳は恐らく三家詩以後に其の體裁を學んで新らしく書かれたものであるかも知れない。
 以上兎も角釋詁から釋訓に至る三篇は詩書の古い部分、若しくは古い傳の解釋といふべきものであつて、後に附益せられたと思はれるものでも、春秋公羊傳がそれに加つてゐる位の程度である。それから考へると、畢竟最初に出來た經書は詩書の大部分であつて、其次に春秋が出來たのであるらしい。而してそれは先づ齊の稷下の學問の起る前まで位の時代に出來たと推斷し得ると思ふ。
 それから釋訓以下の各篇即ち釋親・釋宮・釋器・釋樂・釋天・釋地等の各篇であるが、其の大部分は禮に關係のあるものである。これらの諸篇は禮學が起つたが爲めに、其の解釋として必要になつたのである。それで釋親は禮に於て最も重んずる宗法の爲めに書かれたものであり、釋宮以下は名物度數の解釋をしたものである。其の中で時代思想のいくらか見はれてゐるものを擧げると、例へば釋天の歳名の條に夏曰歳、商曰祀、周曰年、唐虞曰載とあり、又祭名の條に周曰繹、商曰※[#「月+彡」、第4水準2−85−17]、夏曰復祚とあるが如き其の一である。一體三代を並べ稱する考は、既に論語などにも見えてゐるが、孟子には殊に著るしく、三代の田賦の比較異同などを委しく説いてゐる。それで何事でも三代を並べ稱することは、矢張り或る時期から起つた思想に依つて支配せられたものと思はれる。こゝに擧げた歳名の中でも、商には祀といひ、周には年といつたといふことは、當時の簡策とか金文とかに證據のあつたことであらうが、夏に歳といつたといふが如きは別に證據のあつたことではない。況んや唐虞に載といつたなどに至つては勿論問題とならぬ。祭名に於ても、周の繹、商の※[#「月+彡」、第4水準2−85−17]は、猶經に徴證があるが、夏の復祚に至つては諸家の爾雅に此言なく、郭璞の本のみ之あり、その郭璞も未見義所出と注してゐる位である。これらは皆三代を並べ稱する時代思想に依つたもので、其の中には強ひて三代を並べんが爲めに無理につけた名前もあることゝ思ふ。此の三代を並べ稱するのは、多分夏正といふものが暦法家に依つて考へられ、制度の沿革といふことが禮家に依つて考へられた時代、即ち戰國の初期の頃に出來た時代思想であらう。之に依つて推すと、經傳の中にある種々な制度の沿革を三代に割當る思想の根柢を見出すことが出來るのである。鄭玄なども經書を注する時に、古文の禮制と今文の禮制とが符合せない場合には、多くは今文のものを殷の禮であるとして解決した。然るに朱子は其點に就いて破綻を窺知し、語類に漢儒説禮制、有不合者、皆推之以爲商禮、此便是沒理會處、と言つてゐる。
 それから釋天釋地には他の經書若しくは他の書籍と一致しない説があるが、それは却て研究の手掛りとなる所のものである。例へば釋天にある歳陽の名は史記歴書のそれと一致しない。尤もこれは爾雅の方が多分誤であらうと思はれる。それは太歳在戊曰著雍、在己曰屠維の二つが字形の類似に依つて同じものらしく推測せられるからである。若しさうすれば自然他のものも誤つてゐるのではないかと考へられぬことはない。兎も角史記とは傳來の相違といふことだけは疑なき所である。それから又星名が二十八宿整頓してゐないことも淮南子などゝ相違する點であるが、これも二十八宿説が起らぬ前に書かれたものとも考へることが出來るし、或は爾雅の筆者は星暦の專門家でなかつた爲めに疏略に流れたものとも考へることが出來るのである。猶最も著るしい相違のあるのは釋地に見えた九州である。其の書き方が初めの七州だけは禹貢若しくは周禮職方氏などゝ類似してゐるが、末の二州は河の南とか漢の南とかいふ書き方でなく、燕曰幽州、齊曰營州といふ樣な前の分と類しない書き方をしてゐる。齊曰營州といふのが最後に在ることを見ると、矢張り稷下の學問の殘※[#「諂のつくり+炎」、第3水準1−87−64]を擧げる輩が書いたらしく思はれるが、體裁の不揃なのは、地理の專家が書いたのでない爲かも知れない。要するに禹貢とか周禮職方氏とかと相違のあるのは、九州に關する傳來の相違であつて、これが殷の制であると郭璞以來解釋してゐるのは朱子の言ふ如く無意味なことである。それから十藪なども大部分は職方氏、呂覽と出入してゐるが、矢張り傳來の異同を見るに足るものである。此の釋地に類似したもので、釋丘、釋山、釋水の三篇があるが、これは殊に晩出の疑があつて、禹貢若しくは山海經、楚辭などの或る部分の如き地理に關する記述が流行り出した頃の作と考へられ、恐らく戰國末期のものらしい。殊に此の三篇の中で釋丘の初めの部分には山海經の解釋と思はれる所がある。釋山の中で五山五嶽に關することが初めと終とに見えてゐて、然かもそれが一致しないなどは、一篇の中に時代若しくは學説の相違が見はれてゐることを示すものであるが、これは恐らく秦漢の際に書かれたものと考へられるのであつて、其の最後の梁山晉望也の句は春秋傳并に國語などゝ關係をもつことを示すものである。然かも梁山が晉の望なる意味が公羊傳にはこれ無く、他の二傳及び國語には共に見えてゐるといふことは、三傳の前後の關係を示すことともなるものである。それから釋水の末の部分で河曲なども矢張り山海經と關係があり、九河は禹貢の解釋とも視るべきものである。これらは山海經と禹貢とが、一は信用すべき經書で、一は信用するに足らぬ小説雜記であるといふ
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