出來たのは左傳から始まつてゐる。公羊傳はいはゞ春秋を禮で解釋したもので、公羊春秋が盛になつた後には、次いで禮の學問が發達してくるのが當然であるやうである。爾雅にも其の徴候が見はれてゐて、釋親篇以下が禮の解釋となつてゐる。それから其他に戰國の末年から地理の學問などが特別に起つて、書の禹貢、周禮の職方氏、山海經などの如きものが出來上つたのであるが、それに對して爾雅では釋地篇より釋水篇に至る諸篇がある。釋草篇から以下の各篇に就いては、其の出來た年代を的確に考へ得られない。尤も詩に關したものが多いけれども釋詁篇や釋訓篇の時代とは確に違ふやうで、矢張り揚雄の方言の如く、支那の文化や言語が多種多樣になつた結果として、名物が中國の言語のみでは一般に通用し難くなつた所から、これらの諸篇を作る必要が起つたものと考へられるのである。さうしたならば恐らく戰國の末年の頃のものかと思はれる。それから最後の釋畜篇はそれよりも以下の時代に出來たものらしい痕跡が明かに見えるのに、それが易の説卦と關係のあることを考へると、易が經書に列せられたのは最も晩く、章學誠が易は田何の時に始めて竹帛に入つたといつてゐるのが、必しも
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